鎌倉散策 鎌倉公方 二十三、鎌倉と言う地 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 鎌倉は、奈良に都がおかれた時代からその名が知られ、発掘された木簡等に鎌倉を記されている。また、天平五年(737)と記された木簡が御成町の御成小学校の遺跡から発見された。『古事記』にも鎌倉の名が記されており、『万葉集』にも鎌倉の地名が歌に詠まれている。平安時代には郡の役所であった郡衙があったらしく、沼浜・鎌倉・埼立(はぢたて)・荏草(えがや)・梶原・尺度・大島の七郷から成り立っていたと『倭名類聚鈔(わみょうるいじょうしょう』に残されている。八世紀から十一世紀の間で鎌倉軍の間で村が形成されたとされる。鎌倉自体小さな漁村を呈していたにすぎなかった。

 

 平安末期に後白河法皇の皇子以仁王が治承四年(1180)四月に、平家追討の令旨が出され、源頼朝が挙兵し、伊豆目代の山木兼高を討つが、石橋山の戦いで完敗し、海上を安房に逃れた。三浦氏、千葉氏・上総氏の勢力を得て十月七日に関東の有力武士団を率い鎌倉に入った。石橋山敗戦から四十日後の事である。千葉常胤の進言により「要害の地であり、また源治ゆかりの地である相模国鎌倉に行き源家中絶の跡を復興すべきである」と。頼朝は武家政権の府として、大倉の地に居を構え、この地を拠点した。河内源氏祖の源頼義が京都石清水八幡宮より勧請した由比若宮(元八幡)を小林郷北山に移し、鶴岡八幡宮を造設して東国武士政権樹立の象徴としたと考える。

 

 武士・武士団を時代的に区分すると「古代的戦闘集団」と「中世的戦闘集団」そして「近代的戦闘集団」と別れていく。十世紀に「古代的戦闘集団」は在地おける「兵(つわもの))が、農業に従事しながら、騒乱状態になれば戦闘集団に変化する。桓武平氏や藤原氏が、それぞれの地方に分かれそれ開拓者として移り「兵」にあたる。また、朝廷に仕えた大伴弟麻呂(おうとものおとまろ)や坂上田村麻呂など官位(五位以上)を持つ者が蝦夷討伐等を行ったが、その討伐に従軍・参陣する者は、その周辺の在地の兵がほとんどであり、その後の十一世においても朝廷からの討伐軍の主体は在地の兵が、ほとんどその主体を成した。また、十一世紀頃になると侍(さぶらう)という天皇及び公卿に臣下して警護を担当する軍事貴族も出現した。桓武平氏や藤原氏は庶流に分かれその地位に就く者が現れるが、辺境地への開拓事業に遅れた清和源氏の多くが軍事貴族化してゆき、平将門の乱や平常忠の乱、奥州安部の乱に朝廷の指示で討伐に向かうが先述したように軍事貴族の兵数は少なく、この頃には「兵」が拡大して地方豪族して存在するようになる「在地型武装集団」を形成していく。討伐軍のほとんどが、その地方豪族の「在地型武装集団」が占め恩賞にあずかろうとした。そして以前より戦闘組織能力が発展し戦闘者として職能軍事集団へと変遷していく。十二世紀頃には「中世武士団」は石井進氏の『中世武士団』において、「首長の下に従う従者としての「郎等(ろうどう:郎党)」が、さらにその下に従者を持つと言う階層的関係が成立していた。しかも彼らは各地に所領を持つ在地領主であって、その所領の支配を媒介とするヒエラルヒー(階層的支配関係)を基軸に、強い団結を持った戦闘組織が生まれていた」と記述されている。保元・平治の乱において武士という名が定着してゆくことになった。

 

 治承・寿永の乱で東国において武士が、武士の棟梁として源頼朝を立てて御家人として主従関係を交わした要因としては、武士同士の所領争いや荘園問題が挙げられる。所領争は武士同士の姻戚関係である程度抑えることはできたが、開拓した農地に多量の税がかかり、荘園制度により公家、寺社に寄進することで領主が荘園の管理者として少ない税で納めることができた。しかし、いったん寄進してしまえば、その荘園の持ち主は寄進した相手側に移ることになり、管理者を離任させることもあった。そのため武士は常に荘園の持ち主の顔色を見なければならなくなる。それぞれの農地(所)の管理権を、懸命に守ったそのさまを「一所懸命」と言い、この当時から使われた言葉だとされる。これらの武士が東国における自主独立を目指し、京都と対等に話ができる武士の棟梁の必要性を感じ、それに時代が源頼朝を出現させたのである。鎌倉幕府は大化の改新から行われた律令制度の根幹を変革させた人物であるが、司馬遼太郎氏『街道をゆく四十二三浦半島記』の中で「頼朝は、確かに日本史を変えた。また史上最大の政治家ともいわれる。ただ、その偉業のわりには、後世の人気に乏しい。頼朝は、自分自身の成功にさえ酔わなかった。つねに、政治計算をした。その数式に敵(あ)わないとなると、大成功を持つ弟の義経さえ罪なくしてこれを追捕し、殺させた。』と記されている。「罪なくして」という言葉に疑問をもつ。平治の乱での活躍は見事であるが、郡奉行を伴う軍議での行動と朝廷による官位の受領は、主従関係を持つ頼朝にとって御家人が勝手に官位を受けることは二重の主従関係を生み出すことになり、統率と秩序において受け取ることが罪であったのだ。しかし判官贔屓と言う事で司馬遼太郎氏の言うように後世の人気に乏しい。