鎌倉散策 鎌倉公方 二十二、享徳の乱の終焉 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 長禄二年十月十四日に反撃体制が整った上杉勢は古河の成氏討伐のために出陣する。武蔵の太田庄(埼玉県鴻巣市付近)、翌十五日には上野の海老瀬口(群馬県板倉町)及び羽継原(群馬県館林市)で戦いがあり、特に羽継原では激戦が展開された。しかし、上杉方は上杉憲房が討ち取られるなどの打撃を受け敗北をしている。また、当時鎌倉は幕府軍の今川氏が占拠・掌握しており、相模国は上杉氏の勢力下であった。諸勢力の微妙な利害関係が交錯し、幕府が新公方として下向させた将軍義将の庶兄・足利政知の鎌倉入りは実現しなかった。また後に上杉氏の中でも山之内上杉氏と扇谷上杉氏の対立が起き関東地域での緊張状態は別の形でも続いた。鎌倉を挟み、下総の古河に拠点を置く古河公方、伊豆の堀越に拠点を置くの堀越公方という東西異なる小規模な政治的磁場を誕生さえた(関幸彦氏『その後の鎌倉』)。寛正二年(1461)関東執事・上杉朝教が死去。死因は病死とも渋川義鏡の策謀による公方政知への讒言による自害とも伝えられている。関東執事は子・正憲が継承し、越後国守護・上杉朝方の子であり養子の朝定は山本寺上杉家の祖となった。

 
(写真:鎌倉 久成寺山門)

 永享の乱において主(あるじ)の四代鎌倉公方足利持氏を討ち取った上杉憲実は出家隠棲していた。長子憲忠が環俗して関東管領に就き、憲実が自身の意志に背いたことで憲忠を義絶した後、諸国遍歴の旅に出ている。『臥雲日件録拔尤」文安五年八月十九日条に憲実は三十九歳、笠をかぶり、草鞋を履いて一人で歩いており主持氏に背いた謝罪の行脚であると他人に語ったという。京都、九州にまで赴いたとされ、享徳元年(1452)には大内氏を頼って留まり文政元年(1466)、長門国大寧寺で死去した。享年五十七歳であり、憲実の「主殺し」の宿命の旅はここで終わっている。

 文明三年(1471)三月成氏は小山市・結城氏の軍勢と共に伊豆の堀川を攻める軍事遠征に出るが、敗れ古河に撤退していた(『鎌倉大草紙』)。この遠征の失敗により、幕府の帰順命令が出され小山氏、小田氏等の有力豪族が応じたため五月に上杉勢の長尾景信が古河に向け総攻撃をかけた。古河の成氏は下総本佐倉(千葉県酒々井町:しすいまち)の千葉孝胤のもとに退避した。上杉側も古河城に入るだけの勢力が無く、文明四年に千葉孝胤、結城氏広、那須資実、弟の雪ノ下殿尊敒(そんじょう)により成氏は古河城に再び戻り、小山氏も後に成氏方に戻っている。

 

(写真:鎌倉 久成寺仏殿)

 文明八年(1476)、山之内上杉家では家宰の継承争いが原因となり長尾景春の乱がおこっている。翌文明九年正月に景春は武蔵鉢形城を拠点に上杉勢の五十子陣(いかつこ)を攻撃し、これを破壊した。この破壊により対古河公方の攻守網が崩壊する。最終的に春影の反乱は扇谷上杉家の家宰・太田道灌により鎮圧されたが古河勢の討伐を団結して行ってきた上杉勢の動揺は大きく浮かび上がった。古河公方勢の戦いだけでなく、上杉家内部の対立と山之内・扇谷上杉氏の対立が問題となった時期である。

  文明十二年(1480)正月成氏と上杉氏の和睦が成立した(『松陰私語』)。同年三月、成氏は、越後上杉貞房を仲介者として難航していた幕府管領細川正元に和睦を申し入れている(「蜷川家古文書」)。文明十四年十一月二十七日に和睦が成立(『喜連川文書』)し、成氏は関東九ヶ国の支配を認められ政知には伊豆国と領所が与えられた(「書状案文」『神奈川県史』通説遍1)。長享元年(1487)に山之内上杉家の関東管領上杉顕定と扇谷上杉家上杉定正の間で長享の乱が発生した。その原因は上杉景春の乱で鎮圧した扇谷上杉家が山之内上杉家と並ぶ力を有したことから起き、扇谷上杉家の家宰・太田道灌は主定正により暗殺されている。ここで小田原北条の祖である伊勢宗瑞が出現しているが、この長享の乱は複雑すぎるため、ここで述べることは控えておく。

 

(写真:鎌倉 久成寺 長尾定景一族の墓)

 応仁の乱が始まる五年前の事であるが、この和睦は京都においての幕府の秩序が低下していたことから成立したと考え、最終的な幕府と古河公方との都鄙(とひ:都と田舎)和睦が実現したのは文明十五年(1483)六月とされ、この享徳の乱が終結した(『静岡県史』通史遍2)。この享徳の乱は関東での戦乱の始まりを告げ、都鄙和睦後、京都・西国に移り、応仁の乱が京都での戦乱を告げている。これらの争乱により関東での秩序は崩壊し、武士の御所鎌倉は再建されることなく、後の後北条の祖伊勢宗瑞の時代になるまで衰退が続くことになる。応仁の乱以降、室町幕府は焼都となった京・西国での対応を迫られるが、幕府秩序の崩壊を克明にした。そして、東国への関与を弱めざるを得なかったことが大きく、京都を軸とした下克上がはびこり戦国期に入っていった。

 古河公方足利成氏は「足利系図」によると明応六年(1497)九月三十日に死去し、久山道昌と号し、乾亨院(けんこういん)と称する。享年六十四歳で波瀾の人生を終えた。特に鎌倉公方が基氏から始まり氏満・満兼・持氏の四代を称する。成氏は系統的に持氏の実子であるが古河を本拠としたことから古河公方と称され、基氏から始まった鎌倉公方は継承されるごとに対幕府関係を悪化させ幕府が選任権を持つ関東管領上杉氏との対立を持氏の時期から顕在化し武力行使にまで至った。その結果持氏の実子成氏が享徳の乱を起こし、古河と堀越公方という関東において二つの政治勢力を有する事になった。成氏の後は子孫政氏・高基・晴氏・義氏が、およそ百三十年の間、古河公方を継承していくが、無秩序な関東において小田原北条氏の台頭により古河公方の勢力は次第に衰えていき戦国時代に入っていく。関東支配をめぐる諸将の争乱に利用されつつ、またそれらの諸将を頼りながら余命していった。

 

(写真:鎌倉 長寿寺)

 天正十年(1582)閏十二月二十日五代鎌倉公方足利義氏が死去し鎌倉公方(関東公方)の後裔である古河公方は消滅した。しかし、古河公方の末裔は江戸時代の喜連川藩として存続、関ヶ原の合戦後に下野国塩谷郡喜連川(栃木県さくら市喜連川)に藩主足利国朝を藩祖とする喜連川家として存続している。徳川将軍家の家臣扱いではなく、客分扱いの特別な立場であった。明治維新まで権威を継承し存続した。維新後は華族の子爵(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五段階の爵位に叙される)となっている。 ―続く

 

(写真:鎌倉 長寿寺 右手に小鳥が寄り添う観音菩薩立像、足利尊氏の墓標、変形五輪塔)