この江の島合戦は後に起こる享徳の乱の導火線であり、関東の戦国期に突入していくことになる。宝徳二年(1450)に鎌倉公方足利成氏の勢力と山之内上杉家の家宰長尾景仲と扇谷上杉家の家宰太田資清との対立であり、江ノ島合戦が起こる。関東管領上杉憲忠は直接的には何ら関わっていないが、憲忠の父上杉憲実を成氏は憲実を親の仇と考えていたことが要因の一つで、また、成氏の関東施政が管領・上杉憲忠を通じての幕政に移行していたために復権と自身の存在を示す示威的行動と見て取れる。一時的には幕府により和睦を行うが、幕府は鎌倉及び関東を鎮静するため憲実に関東管領復帰を命ずるが、憲実は隠棲している身と家中との対立が残り、これに応じなかった。
同年八月に成氏は鎌倉に戻り、九月に成氏は東国代替わりの徳政を出している。そして十月に上杉憲忠が相模七沢から鎌倉に戻った。翌宝徳三年二月、成氏が従四位下、左兵衛督に任官している。京都では幕府管領が畠山持国から細川勝元へ交替される持国は幕府において親成氏派の筆頭と言ってよい存在であったが、勝元は親上杉派であった。この管領交代は成氏にとって幕府権力を背景にした鎌倉府の再建を不可能とし、幕府と上杉氏の権力が成氏に圧力となって帰ってきた。江ノ島合戦後に長尾・太田配下の諸士に対し、成氏は所領没収を行っており、憲忠を介し長尾・太田与党の本領返還要請が出されるが成氏は許容せず、両者の緊張は続いた。この様な状況下において、成氏側は「憲忠を退治して関東を執務べし」との進言を受け、そして享徳三年(1454)十二月二十七日に成氏は憲忠を暗殺し、享徳の乱を引き起こしてしまった。『鎌倉大草紙』には、成氏側が憲忠の屋敷を急襲したとあるが、『康富記』では成氏が西御門の館に憲実を召し寄せ謀殺したと記される。またこの時、同時に憲実のある鎌倉山之内一帯に夜討ちをかけた。この様相からして憲実暗殺事件は成氏方による計画的実行であった事が窺いとれる。また成氏は江の島合戦後山之内上杉氏の家宰となった長尾実景親子らが討ち取られ、上杉氏側にとって大打撃を受けた。三十年にわたる東国の大乱「享徳の乱」が展開される。
翌享徳四年(1445)正月早々に成氏は鎌倉を出陣し、正月六日に相模島原(神奈川県平塚市)、二十一日から翌二日に武蔵高幡(東京都日野市)・分売河原(東京都府中市)で上杉勢と合戦し、打破った。上杉氏側は犬懸上杉憲顕、扇谷上杉顕房らが討ち取られ、長尾景仲は常陸小栗城(茨木県筑西市)へ敗走している。氏成りは、その後、武蔵を転戦し二月十八日村岡(埼玉県熊谷市)に在陣し、三月三日には下総古河(茨木県古河市)に入った(「赤堀文書」)。その後も関東各地で転戦し、上杉勢は執拗に成氏を負い、やがてこの下総古河が成氏の本拠地が移されることになる。この事件により鎌倉的秩序は終焉し、上杉勢力及び室町幕府との本格的対立に繋がった。室町幕府将軍足利義政は享徳四年(1455)正月十六日に信濃の小笠原光康に上杉氏協力を命じ、この乱における上杉氏支持を明らかにしている。そして三月二十八日、後花園の天皇から成氏追討の御旗が下賜され、在京奉行の上杉房顕(憲忠の弟)が長尾景仲らの申請に基づき山之内家督継承者として認められ関東に下向した。成氏は父と同様、朝敵として討伐されることになる。成氏は享徳の乱初戦において有利に展開しており、康正二年に幕府との関係修復を試みる。幕府管領細川勝元に宛てた書状の中で、関東管領上杉憲忠や山之内上杉氏家宰長尾景仲、扇谷上杉持朝の非道ぶりを訴え、やむを得ず誅伐したと訴え、幕府に対する反逆の意志がないにも関わらず讒言により幕府からの討伐を受けるに至った無念さを訴えている。しかし幕府管領細川勝元は上杉氏を擁護し、成氏の憲忠誅伐の論理及び、成氏優勢で展開される関東の現状を許しがたく、この弁明が将軍に伝わることはなかった(「武家事記」)。成氏は父持氏と同様に京都の還元を無視して享徳年号を二十七年(文明十年1478)まで使用し続けている。この間、康正、長禄、寛正、文正、応仁、文明と改元された。
同享徳四年六月に、成氏追討のため幕府軍は駿河守護の今川範忠等が鎌倉に進撃し、守備していた成氏の諸士により公方御所神社仏閣はことごとく焼き払われ『鎌倉大草紙』には「永代鎌倉亡所となり、田畠あれはてける」と記されている。成氏勢は幕府討伐軍に鎌倉を追い出され、成氏は本拠地を下総古河に移すことになった。成氏の兄弟で長勝寿院門主であった成潤も自らが別当を兼務する日光山に対抗する姿勢を見せ幕府側に付いた事も下総古河に拠点を移す要因になったとされる。五代、百三十年に及ぶ古河公方家が誕生することになった。将軍義将は享徳の乱を起こして追放された足利成氏に替わりに康正三年(1457)七月までに鎌倉公方として天竜寺香厳院(こうげんいん)主であった庶兄を還属させ新たに関東公方とすることを決めた。これが足利政知で、翌長禄二年(1458)五月から八月の間に関東に派遣されたようだ(康正三年七月十六日「石川文書」)。上杉氏も長禄三年になると武蔵五十子陣(いかつこ:埼玉県本庄市)を整え関東管領上杉房顕以下の上杉諸将が滞陣するようになり、北関東の古河に拠点を置いた成氏と利根川をはさみ上杉氏と対峙するようになる。また長禄元年(1457)には江戸城が扇谷上杉氏の家宰になった太田道灌(どうかん:太田資清の子)により対氏成を目的として築城された。反撃体制が整った上杉勢は古河に迎い成氏討伐のため進軍する。翌長禄二年十月十四日に武蔵の太田照(埼玉県鴻巣市付近)、翌十五日には上野の海老瀬口(群馬県板倉町)及び羽継原(群馬県館林市)で戦いがあり、特に羽継原では激戦が展開される。しかし、上杉方は上杉憲房が討ち取られるなどの打撃を受け敗北した。一方勝利した成氏方も決して安奉とは言えない状況で享徳の乱の当初から与していた上野の岩松持国がこの一連の合戦前に上杉方に寝返っていたからである(高橋典幸遍『中世史講義【戦乱遍】』)。
鎌倉入りを目指した足利政知、渋川義鏡らとともに上杉朝教は供に付き従いったが、政情不安のため果たせず、政知は伊豆堀越に留まり、堀越公方となり、教朝は関東執事となる。享徳の乱による古河公方対上杉氏、幕府勢は膠着状態に入ることとなった。足利政知は将軍義教の四男であったが母が幕府奉行衆斎藤氏の娘・少弁殿(斎藤朝日妹であったため)で、六代将軍は母が日野重子であった義勝が就いている。また、八代将軍義政は義勝の実弟になる。幕府において日野家が台頭してきた時期でもあった。やがて関東の乱である享徳の乱に積極的介入を試みた将軍義将と長期管領を勤めた細川勝元に対し管領斯波義康(しばよしかど:渋川義鏡の実子)や山名宗全・畠山義就(よしひろ)らの反発が応仁の乱の要因の一つとして挙げられる。 ―続く