足利持氏の死でもって永享の乱は終わるが、上杉憲実は主君足利持氏を助けるため幕府に嘆願している。しかし結局、将軍義教の強い命により永安寺に攻め入り死に追いやってしまった。この永安寺は瑞泉寺の総門近くにあったとされ、氏持の父三代鎌倉公方・足利満兼が全公方の父氏満の供養に建立した寺院で現在東慶寺の鐘楼の梵鐘は永安寺跡から掘り出された物と伝えられており、瑞泉寺には持氏の物とされる墓塔が残されている。永享の乱後、瑞泉寺の塔頭となったが、後に廃寺となってしまった。また、鎌倉大町の別願時にある高さ三メートル程の供養塔は持氏の怒りを鎮める供養塔と伝えられている。
(写真:鎌倉 別願寺)
『上杉憲実記』(『続群書類従』)に「永安寺三重塔に、御台所を始め数十人の女房達、形を隠し御坐(おわし)しを、基とは知らず、下より火をつけ、焼殺けるこそ悲しけれ、春王殿、安王殿は、乳の女房甲斐々々しくて、下野国日光へ落し、衆徒を頼み深く隠れし奉る」とある。持氏室が大塔の中で焼死したことは『足利治乱記』〈下〉にも伝えられているが、上杉家文書に文安四年(1447)九月十八日上杉憲実(長棟)によって「御れう所」とされた伊豆国平井郷は、その時に家臣から召し上げて持氏御室領所とされており、生存していたと考えられる。しかし、持氏の御台所は定かではなく、嫡子の義久の母は不詳であり、『系図纂要』によると、安王丸・春王丸・成氏の母は簗田(やなだ)長門守直助娘とされ、「古川公方系図」(続群書類従本)は持氏の次男春王丸の母は簗田河内守満助娘とされる。簗田河内守満助娘と簗田長門守直助娘の二人が考えることもできる。また、『鎌倉大草紙』では河内守は、足利成氏に従っていることから考えて、通説では持氏の御台所は簗田河内守満助娘とされるが定かではない。
(写真:鎌倉 瑞泉寺)
上杉憲実は、主君持氏を死に至らしめた事を悔い『生田本鎌倉大日記』『師郷記』永享十一年七月四日条では六月二十八日、持氏が自害した永安寺で自害を試みるが近従に止められている。実弟の清方に家督を譲り後事を託して、伊豆国清寺に隠居し、出家して雲洞庵長棟高岩と号した。しかし幕府は清方の関東管領を許さず憲実に強く管領職を続けるよう求めていたが、それには応ぜず、しばらくの間、鎌倉公方と管領職不在であったようである。将軍義教は実子を鎌倉公方に就け幕府の専制政治体制を確立しようとするが憲実は請け負わなかった。そのため実子を鎌倉に下向させることに躊躇したと考えられる。将軍義教が上杉憲実をいかに信頼していたかを窺うことができる。将軍義教の関東支配の先駆けとして『蔭涼軒日録』永享十一年五月四日条には鎌倉五山の住持の更迭を行っている。鎌倉府の存亡と鎌倉公方持氏を助命できなかった憲実は、その後、「主(あるじ)殺し」としての宿命を背負っていくことになる。
永享十二年(1440)正月十二日、持氏の近臣であった一色伊予守が鎌倉を出奔し、相模国今泉城(海老名市)に立て籠もる。しかし、早々に討伐され、一色伊予守は逃亡し、舞木持広と赤岩嵩の守が連座として誅殺された。翌二月には、常陸での反上杉派の行動に「関東の事、雑説あると云々」との知らせを幕府は受けている。二月十九日、持氏遺児の泰安王丸と思われる人物から、在地の地ならしを目指したと考えられる所領安堵状が、上野国の岩松持国の副状と共に出され、蜂起の準備は進められていたとされる。翌三月三日、持氏の遺児春王丸と安王丸が反上杉・反幕府の象徴として常陸国城所城(桜川市)で挙兵した。この挙兵は幕府将軍義教が鎌倉公方を子息で擁立させる目論見があったため鎌倉公方は持氏の子息を立てるべき立ち上がった側面も考えられる。隣国結城氏朝に迎えられ結城城に入り北関東の武士に安王丸の書下しにより結城氏朝、桃井憲義が参集を行う。その文頭には「上杉安房入道(憲実)・同弾正少弼(持朝)以下退罰」と標榜し、反幕府行為ではなく、亡き父持氏の仇を討つための義挙であることを強調した。三月二十六日に陸奥国石川持光に軍勢催促状を発し、七月八日には感情を与えている(石川文書)。そして上杉勢との対決姿勢を示した。持氏恩顧の武将、結城氏朝、桃井憲義、岩松持国をはじめとして、今川氏広、木戸左近将監、宇都宮伊代守、小山広朝、里見修理亮、一色伊代守、寺岡左近将監、内田信濃守、小笠原但馬守、梁田山城守、二階堂左衛門慰、大森六郎、大須賀越後守などの二万の軍勢が参集した。この背景には、持氏の死後、上杉を倒すことで失った地位、及び所領の回復が目的であった。
(写真:鎌倉報国寺)
鎌倉では、安王丸蜂起から二週間足らずの三月十五日に庁鼻和(こばなわ)上杉氏の性順(せいじゅん)と山之内上杉家の家宰・長尾景仲を先遣隊として発ち、同十九日には総大将として上杉清方と扇谷上杉持朝の本体が発っている。幕府は持氏遺児の挙兵の報せに十二年三月二十七日憲実の管領復帰を即し、遅滞するならば先忠も無にすると脅し、一刻も早い帰参を命じている(『足利将軍御内書幷奉書留』)。憲実は四月六日伊豆国を発ち鎌倉山之内に入り、五月十一日には神奈川に出陣した(『鎌倉九代記』)。
結城合戦は基本的に結城城籠城戦として考えられているが、古河城を支城とし幕府軍との遊撃戦を伴う攻防戦を考えていたとされる。同年四月十七日、幕府軍との本格的な合戦の前に祇園城攻めの先制攻撃を行い、城主小山持政の奮闘により撃退されるが、士気を高めるには十分な初戦であったと考えられる。また、結城合戦に端を発する六月二十四日、鎌倉府の主となる野心を抱いていた篠川公方の足利満直が結城方と連携する中で、領地であった陸奥国石川郡(白川郡)泉郷を結城氏と争っていた石川持光であったが。下総結城氏に呼応した南奥州諸士が一斉に蜂起し篠川御所を襲撃、その蜂起に石川持光が加わっており満直を自害または殺害し、伊達持宗もこの蜂起に関与していたとされる。
(写真:鎌倉報国寺 足利一族の墓標)
幕府の出陣命令は将軍義教の御内書、細川持之及び政所執事伊勢貞国の奉書によって、関東の細部にまで伝わっている。それらの命令書には「常州当たりの野心の輩出張」と言う出だしで武州一揆、南一揆、新一揆や入西一揆の武州一揆までも通達されていた。そして永享の乱の前例に倣い犬懸上杉氏の持房に官軍の御旗を持たせ下向させている。討伐軍の軍勢は、最終的に十万に達したという。
迅速で大規模な軍勢の動員で、結城軍に正面からの会戦をあきらめさせ、後方かく乱のための小競り合いを伴う持久的籠城戦へと切り替えさせた。その軍勢は関東及び越後の上杉を中心に、下野の宇都宮等綱・小山持綱、常陸の山入佐竹祐義・小田讃岐守・北条駿河守、上野の岩松家純・上州一揆、武蔵の武州一揆、下総の千葉胤直、甲斐の武田信重、駿河の今川範忠、そして信濃の小笠原政康、美濃の土岐持益、越前の朝倉教景と広域にわたっている。そして各地から合流する軍勢を吸収しながら七月九日に結城に着陣し月末には結城城を包囲した。 ―続く