(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)
永享の乱は、鎌倉府が置かれてから、幕府が鎌倉にかつてなかった軍事行動に走らせた。その背景には、擾乱の乱での足利尊氏と足利直義の兄弟の紛争から、尊氏の子・二代将軍義詮と初代鎌倉公方基氏(直義の猶子)、三代将軍義満と二代鎌倉公方満兼から四代将軍義持と四代鎌倉公方持氏と幕府と鎌倉府の確執が引き継がれ六代将軍義教が鎌倉公方足利持氏に最後の引導を突き付けた。
その原因として永享八年に信濃守護・小笠原政康と村上頼清の領地争いの確執があり、『永享記』には、信濃国の豪族村上氏は鎌倉公方に好(よしみ)を通じていたと記されている。 『喜連川判鑑』には幕府を背景とする小笠原氏に対抗するため頼清が持氏に援軍を要請し、それに答え鎌倉公方持氏が桃井左衛門督を大将に上州・武州の一揆を中核にした軍勢を派遣した。関東管領の上杉憲実は「信州は京都の守護分国也、小笠原は彼守護人、京都の御家人也、彼を御退治、京都への府議足るべし」と諫言したと『永享記』に記されている。しかし持氏は受け入れることはなく、関東管領上杉憲実は山之内上杉の影響下にあった上州の一揆の信州への越境を止めさせた。その結果、事実上派遣軍の行軍を中止せざるをえなくなり、事態を収束させている。憲実は管領として幕府と鎌倉府の和平を考慮し、適切に対応した結果であるが、持氏は面目を大きく潰された形となり、持氏と憲実の関係は極限に悪化したのである。
(写真:鎌倉 材木座海岸から見た稲村ケ崎、 成就院から見た由比ガ浜)
翌永享九年(1437)四月に再び持氏は近臣の宅間上杉家の憲直を大将として憲実の影響下でない勢力を派遣すると計画が図られた。しかし、「この派遣軍は信州に向けられたものではなく、憲実と討伐のために組織された」と噂が流れ、山之内上杉氏の被官らが鎌倉に集結し、同年六月には鎌倉中が大騒動となっている。この騒動を終結するに動いたのは当の持氏であった。憲実の宿所を訪ね、今回の騒動の原因となった派遣軍の大将上杉憲直親子(扇谷上杉氏)を同月十五日の藤沢に蟄居させると言う事であったが、憲実は不安を残し、同月二十五日に七歳になる嫡子龍忠(憲忠)を鎌倉から本領の上野国へ下向させている。持氏はさらに最有力の近臣であった一色直兼を三浦に蟄居させた。その際に持氏は、憲実に上杉の重臣大石憲直と長尾景仲が今度の騒動の張本人であるため鎌倉退去を持ち出し、大石・長尾両人は「自分たちが鎌倉を離れることで事態が収まるなら、喜んでそうします」と憲実に示したが、「両人が鎌倉を離れても事態は変わらない、かえって不安な状態になる」と答え、持氏への不信感を露わにし、管領職を辞任した。持氏は再び憲実の宿所を訪ね関東管領職の再就任を懇願するが、憲実は頑強に辞退し続け、業を煮やした持氏が強制的に復職を言い渡し、その場を去ったという。憲実は一旦復職するが武蔵国は鎌倉公方の領国といなされ、関東管領が代官として守護職を務めており、武蔵の行政手続き文書への署名を依然として拒否し、一切の関与も否定して静かな抵抗を示している。
(写真:鎌倉鶴岡八幡宮)
永享の乱の最大の要因である若君元服事件であった。永享十年(1438)六月、持氏の嫡子元服の儀において、その作法と手続きにたいして憲実は激しく諫言した事である。先例により代々鎌倉公方の嫡子が元服する際に登代将軍の偏諱により一字を拝領するため使者を上洛させていたのであるが、持氏はそれを行わず、将軍の「義」を用い義久とした。偏諱は二代鎌倉公方足利氏満の元服の際からとされるが、それを伝える資料は見当たらない。また鎌倉の鶴岡八幡宮での元服の儀式を遂げようとしたが、源家信仰第一の鶴岡八幡宮は足利家もその庶流であるが、京都の将軍に対しての配慮を逸していた。憲実は京都に使者を立て、鶴岡八幡宮での元服の儀式を白紙に戻すよう諫言したのである。しかし、持氏はそれを受け入れなかった。「是より君臣ノ間睦時からず」と『喜連川判鑑』に記されているように持氏は憲実を疎んじ、憲実誅殺の風聞により憲実が元服の祝儀には、臨席しなかったと『永享記』に記されており、憲実は再び繰り返される持氏への不信感が顕在化していった。
持氏は、ここでも憲実に和解策として嫡子義久を憲実に預けると申し出た。憲実も了承し、和睦は成立するかに見えたが、持氏の近臣一色氏から出た鶴岡八幡宮若宮社務の尊仲の進言で沙汰止みとなってしまっている。持氏と憲実は溝は深まり、両者間での和解の打開策は見いだせず、その後、八月十二日、関東管領家家宰・長尾芳伝、小侍所別当・扇谷上杉持朝、侍所別当・千葉胤直や鎌倉府の有力者が調停に入るが、それらの進言を受け付ける状態ではなかった。八月十六日鶴岡八幡宮放生会が終わると持氏は憲実を討つと言う話が広がった。憲実は、関東管領として公方を導き出せない事から、自害を試みるが、被官たちに止められ、被官たちの進言で上野に下向した。この下向で持氏の運命を決定的なものとなる。
(写真:鎌倉 浄明寺)
上野国平井城に入った上杉憲実は、京都に援軍を求めたとされるが、京都の幕府にはすでに状況を掌握していたと考えられ、「足利将軍御内書幷奉書留」には、七月三十日から各武将に対し憲実への援助を指示している。八月十五日、関東管領上杉憲実が鎌倉からの脱出を知った持氏は、近臣の一色に憲実追討を命じ、上野に国に下した。そして持氏は十六日に自身も鎌倉を発ち、武蔵国府中の高安寺に出陣している。幕府は八月二十二日上杉教朝を大将に持氏討伐を下し、駿河国今川氏や信濃国の小笠原氏にも関東への派兵を命じた(「真壁文書」「小笠原文書」)。『看聞日記』永享十年十月十日条に同月二十八日、後花園の天皇から持氏討伐の綸旨と錦の御旗が幕府に給われている。上野国では憲実軍と一色軍戦い、相模国内では、も幕府軍と持氏軍の攻防が続いた。九月末に持氏軍が相模の国海老名に布陣するが、そのころから持氏に背く諸士が現れ始め、上野の一色軍も同じようになっていた。手勢が少なくなった一色軍は相模の持氏に合流する。鎌倉後期から中小武士にとっては勝ち馬に乗ることが生き延びるための必然的な行動だった。
(写真:鎌倉 瑞泉寺)
九月二十七日、今川勢は持氏方の軍勢を撃破して足柄山を越え上杉持房も箱根の陣を破る。同じころ、信濃の小笠原政康が上野国板鼻に入り平井城に向け北上する持氏の軍勢を打ち破った。十月八日に上杉憲実も平井城を出て一色軍を破った。鎌倉を守っていた三浦時高が十一月三日に守備を放棄し寝返り十一月初めに鎌倉に攻め込んで火を放っている。相模守護を代々引き継いできた三浦氏だが持氏が近臣の一色氏に命じ三浦氏を退けたことが要因となったと思われる。劣勢に陥った持氏軍は早川尻の兵が多くは戦死、または逃亡をした。持氏、憲直は相模国海老名まで退き、鎌倉に落ちようとした。十月十九日、憲実は武蔵国分倍河原で陣を張り家宰・長尾忠政及び景仲の軍に鎌倉に向かわせ、持氏と鎌倉の葛原で出会い幕府への恭順の意を示し、忠政は丁重に氏持を迎え、供奉して鎌倉の浄智寺に入る。その後、二階堂の永安寺へ移り、十一月四日に武蔵国称名寺で剃髪し、道継と号し出家する。また称名寺では持氏の側近らが多く切腹をさせられ、そして再び鎌倉の永安寺に幽閉された。
憲実は今回の事件の責任を持氏側近に負わせ、持氏の助命と嫡子義久の鎌倉公方就任を幕府に嘆願するが、聞き入れられず、憲実は将軍義教の持氏討伐を命じられてしまっている。永享十一年(1439)二月十日、憲実は将軍義教の強い命令を受け、やむなく千葉胤直らを永安寺に攻めさせ、持氏と叔父の稲村公方足利満貞に自害をさせ、報国寺に入り、嫡子義久も自害させた。享年十四歳であった。 ―続く