鎌倉散策 鎌倉公方 十九、結城合戦  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 将軍義教は何よりもこの状況において上杉憲定の復帰を懇願した。義教の「遅滞するならば先忠も無にする」と脅し、一刻も早い復職を命じている(『足利将軍御内書幷奉書留』)。そして等持院などの宗教勢力も利用し、憲実は四月六日、伊豆国を発ち鎌倉山之内に入り、五月十一日には神奈川に出陣した(『鎌倉九代記』)。八月初頭には、祇園城に入り包囲軍の指揮を執る。しかしその後、結城城への攻撃は、はかどることがなかった。総大将の一人、扇谷上杉持朝は「諸軍勢が陣に到達しても、いまだに延々と時だけが過ぎてゆくだけで、外城にさえ、手を付けていません。何とか近日中に攻撃ができればいいのですが……。」と総攻撃の必要性は感じ取っていた。業を煮やした将軍義教は軍奉行の仙波常陸介に状況を伝える命を出した。現場の状況を掌握するため上杉清方に委任し清方の被官の太田駿河守と長南駿河守を諸将に遣わし状況を聞き出してまとめたものが永享十二年の(1440)十月十五日付の「仙波常陸介書状」である。その中に躊躇する要因が記され、まとめてみると三つの要因にまとめられる。

 

(写真:北鎌倉 明月院)

 その一つは堅個な結城城である。鬼怒川と田川により形成された台地に作られた天然の要害で周囲は沼地でおおわれており、田川を利用した外堀と曲輪(くるわ:城兵の駐屯施設)郡を分ける空堀が縦横に廻らせ敵の侵入を拒んでいた。二つ目は、持氏の遺児安王丸と春王丸の存在である。直接京都将軍と主従関係を結んだ京都扶持衆の者とそうでない者の差はあるが、東国における鎌倉府体制下の武士には鎌倉幕府以来、鎌倉の主は東国武士及び東国秩序の象徴であり自主独立を担ってきた。持氏を倒した者にとっても鎌倉公方に対し経緯を示していたと考えられる。永享の乱で敗れた持氏が幽閉され、しばらくは命を奪う事が出来なかった。それは上杉憲実の忠誠心だけではなく、これらの感情があったと考えられる。そして三つめは、留守をする本国、本初領への憂慮であった。大軍を有した方が初戦で敗北を来たすと結城方の拠点の結城城の勢力以外に参軍しなかった潜在的な結城勢や領地を失った勢力が各在所に残されていたことにより所領奮取が起こる危険性もある。大身の信濃小笠原氏には大井氏、甲斐武田には逸見氏等がそうであり、参陣した武士の抱える問題であった。しかし、中小武士団・一揆においては所領に残す兵力はほとんどなかった。事実永享十二年の年内で大身の被官でありながら理由をつけ下国する者もあり、一揆においては無断で離脱し下国する者も現れている。

 

(写真:北鎌倉 明月院)

 結城城での状況を憂慮した幕府軍は六永享十三年(1441)正月一日を期して結城城への直接攻撃の開始を決定した。攻撃が始まると多勢が優勢になり、二月に年号が嘉吉と変わった四月十六日に総攻撃が行われる。圧倒的な勢力で猛攻を受けた結城勢は激戦に堪えたが、城兵の多くが討死に、城内から火が上がり、城内すべてを焼き尽くしていった。炎と煙を逃れ城兵は田川に追い詰められ、討死にして果てた。安王丸・春王丸兄弟は長尾実景に生け捕りにされ、結城城は陥落した。そして一年余りに渡った結城合戦は終結し、翌十七日に首実検が行われ、一部は京に送られている。安王丸・春王丸兄弟も京に送られることになったが美濃国垂井宿で将軍義教の命により幼い命が絶たれている。『足利治乱記』〈下〉によると十三歳と十一歳、『東寺執行日記』〈五〉では十二歳と十一歳、『師郷記』では垣地元年五月十九日条に十二歳と十歳とされている。二人の亡骸は同地の金蓮寺に葬られ、今もここで眠っている。持氏の遺児、末弟の万寿王(六歳)も同じく護送されており、万寿王も誅殺するか否か幕府に注進したが、六月二十四日の嘉吉の乱により将軍義教が播磨国守護赤松満祐により暗殺され、万寿王のみが助命され土岐益持に預けられたと『鎌倉大草紙』に残されている。

 

(写真:京都 法観寺の塔周辺)

 京都では、六月二十四日のり播磨国守護赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いの猿楽と称し、義教を自邸に招き猿楽の最中に襲い暗殺した。義教は籤で選ばれた将軍として負い目、引け目、劣弱意識を持っていた。そのため諸士に対する扱いが、専制的な施政を通り越し、自己本位的な施政を成すようになる。大和での近臣一色・土岐誅殺事件などがあり各諸士はその狂乱ぶりがいつ自身に襲いかかるか不安の極限であった。赤橋満祐は自身に襲いかかる前に暗殺に踏み切り、その後播磨に下り城山城(きやまじょう:兵庫県竜野市)に籠城したが、幕府軍によって落城、満助は自害して果てた。これが嘉吉の乱である。幕府は急遽、次の将軍を義教の子息で八歳の義勝を就かせた。幕政は大名たちの合議制で行われたが嘉吉三年(1443)七月二十一日、将軍義勝が十歳で亡くなる。『建内記』では父義教による足利持氏の報いかと噂されことが記されており、そして義勝の弟成重(後の八代将軍義正)が八歳で家督を継いだ。

   

(写真:京都 相国寺)

 結城合戦後の嘉吉元年六月に将軍義教が暗殺され、幕府は関東の秩序回復に上杉憲実の関東管領の復帰を命じるが憲実は拒み続けた。憲実は永享の乱後に鎌倉を去る。その際に再び実弟の清方(越後上杉氏)を呼び、関東管領職と山之内上杉氏の家督を譲ったとされる。幕府も長い間憲実の「名代」とみなしていた清方を関東管領として認めざるをえなくなったとされる(黒田基樹編「上杉清方の基礎的研究」)。文安元年(1444)の秋、憲実は譲状を書き、甥の越後守護・上杉房和に預けていた次男・房顕に山之内上杉の重要な所領を譲っている(同年八月・同年九月「上杉文書」)。憲実は、この時、諸子のうち次男の房顕のみ在俗させ京都での奉公を望んだ。残る男子四人はすべて出家させ、関東の政界には自身の子息を一人も出さないとする決意を固めていた。譲り状の文面に丹波国綾部豪(京都府綾部市)については出家した兄龍忠(幼名は龍若なので法名か)が生存中は兄に知行させ死去した後は房顕が知行するようこと、もし龍柱が環俗するようなことがあったなら「不孝之子」であるので生存中でも父の遺領は知行させてはいけない、と憲実は房顕の譲り状に明記している。        

(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)

 文安元年の譲り状が房顕に渡された後に清方は死去した。再び関東管領と山之内の家督が空白になった。憲実は、自身の決意から子息に継がせることを許さず山之内上杉の血を引く実定(養父・憲基の弟佐竹義人の次男)を後継者に指名した。家宰の長尾景仲はこれに反発して憲実と対立する。文安四年、持氏の遺児成氏が鎌倉公方になると、長尾景仲が憲実の長男・龍忠を還俗させ名を憲忠とし、擁立して関東管領に就任した。憲実は憲忠を不忠の子として「悔い返し(親権により譲与を取り消す事)」を行い、所領すべてを没収して義絶している。憲実は自身が背負った管領の苦しみと道理の合わない施政に子息には、負わせたくなかったのだろう。 ―続く