鎌倉散策 鎌倉公方 十五、永享の乱の始まり | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 応永二十三年(1416)に起きた禅秀の乱は幕府と鎌倉府の協調で鎮圧された。その後、山之内上杉氏は関東管領を独占するようになる。関東管領の補任権は当初から幕府が握っており、実際の補任時には鎌倉公方の意向が認められていたが、幕府はいつでも否認する事が出来た。山之内上杉氏は、関東の所領を有するほか、越後には広大な所領を有し、庶流の越後上杉氏は越後守護に就いている。幕府は越後の山之内氏領と越後上杉氏の管轄下に置いてあったため所領安堵権、関東管領、守護補任権を有していたため支配下に置き室町幕府の意向の下、鎌倉公方を補佐する存在としていた。従って、鎌倉公方と関東管領は、しばしば対立的立場をとることがあった。

 

(写真:鶴岡八幡宮十二月の御鎮座記念祭)

 禅秀の乱後、鎌倉公方足利持氏は、禅秀与同者たちへの討伐を必要以上に行い、応永二十四年(1417)から同三十年の六年間を関東各地で転戦しており、応永二十四年(1417)四から五月に持氏改判(花押の変更)を行う。それは持氏の決意の表れではないかと考える。応永二十四年閏五月に禅秀の女婿、上野の岩崎満純を討伐。応永二十五年(1418)犬懸上杉氏の領国で禅秀近臣者が関わって起こった上総本一揆の討伐を行った。この年の一月四日に関東管領上杉憲基が二十七歳で死去した。そして、応永二十六年(1419)五月に憲基の後継者として越後上杉家の房方(山之内上杉憲方の子)の三男・幼名孔雀丸(上杉憲実)が選択され、後に関東管領に就いている。将軍持氏二十二歳、管領憲実は十歳で、持氏の命で合戦に出ても「いまだ判形を能わざる野間」、つまり花押を持てず、武士たちの軍忠上の証判墓花押を示すことができなかった。「上杉文書」に同年八月二十八日の将軍足利義持の御判御教書に憲実初見の資料とされる「伊豆・上野両国守護職」に上杉四郎憲実の補任内容が記されている。鎌倉に着いた十歳で元服し、憲実を名乗り山之内上杉家の家督を継いだと考えられるが、関東管領に補任された月日を示す資料は残されていない。まだ、元服したばかりの憲実に伴う近臣者は、持氏の討伐をを制止するが持氏はそれを聞かず、憲実との関係が険悪なものになっていく。応永二十八年(1421)六月に常陸の額田義亮が反乱、持氏がこれを攻める。応永二十九年八月には常陸の小栗光重を討伐。同年閏十月には常陸の佐竹氏の内紛により、それに乗じて山入与義を討伐。さらに応永三十年(1423)下野の宇都宮宮綱を討伐。そして、応永三十二年(1425)八月、甲斐の武田氏討伐を行っている。京都扶持衆の宇都宮持綱などを粛清、さらに幕府の支援する佐竹氏討伐をするなど鎌倉府の自立的行動が目立つようになり、再び幕府と鎌倉府は対立関係となった。

 

(写真:京都御所)

 京都では、応永二十五年一月二十四日に禅秀の乱で加担したとされる将軍義持の弟・足利義嗣を義持の命で富樫満成が殺害、もしくは自害させている。義嗣と関係した諸大名に対し将軍義持と富樫満成によって主導され処罰が与えられた。土岐持頼、所領数か所召し上げ。畠山満慶嫌疑をかけられ、山名氏の出仕停止など、義持は有力大名の排除を考え、自身の主導する幕府体制を目指したともいわれる。満成の権勢も高まり、諸大名から反発を買うようになる。応永二十六年(1419)十一月二十四日に細川氏らにより義嗣の愛妾・林歌局と満成が密通していたことが告発され失脚したが、高野山に逃れる途中で富樫満成は畠山満家により殺害された。『看聞日記』では「富樫兵部大輔(満成)今暁没落云々、室町殿北野参篭中御突鼻と云々、近日の権勢傍若無人の処、にわかの儀今更不定驚かれおわんぬ」とある。将軍義持は父義満の政治を否定するため、特に明との国交で義満が開いた冊封関係で「日本国王」に封じられたことが公家等や幕府管領斯波義将などの諸士からも批判が強く明との国交の断絶を行った。そして、応永二十八年八月畠山満家が幕府管領に再任している。

 

(写真:京都 石清水八幡宮)

 応永三十年三月十八日に義持は二十八年間の将軍職を辞任し、嫡子・義量が五代将軍に就く。義持は秘密裏に出家し道詮と号した。父義満とは違い禅を極めるための出家とされるが、幕府の実権は義持や主要守護が握っていた。しかし、応永三十二年二月二十七日、将軍義量が十九歳で急死する。義量には子が無く、義持にも他に子がいなかったため義持がそのまま幕政を統括している。そして、応永三十五年一月十七日に義持も死去した。一月七日に浴室で尻に出来た出来物をかき破り、翌日の八日から風邪による雑熱と尻の傷も腫れ上がり、日を重ねる事、発熱が続き重篤化していった。十五日には『健内記』によると尻の傷は腐りだしていたと記されており、死因は壊疽による敗血症が推測される。床に伏していた義持に重臣達が後継者の意向を聞いたが「たとえ御実子御座あるといえども、仰せ定めるべからず御心中になり、いわんやその儀無し、ただともかくも面々計らいしかるべきよう定めおくべし」と述べた。義持は後継者を決めず、幕府重臣に任せたのである。その意向を得て幕府重臣たちは義持の弟である梶井門跡義承、大覚寺門跡義昭、相国寺虎山永隆、天台座主義円の中から将軍を選ぶ籤(くじ)を作り、十七日石清水八幡宮で籤を引き、義持死後開封するとした。そしてその結果、天台座主の僧であった弟の義円(義教)が六代将軍に就任する。義教により正長二年(1429)九月五日改元され永享元年とされた。

 

(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)

 鎌倉の持氏は、それに反発し正長の年号を使い続け、幕府への不服従の姿勢を示した。さらに山之内上杉氏から扇谷上杉氏の定頼、宅間上杉氏の憲直、直臣一色直兼を重用し持氏の独裁を強めていった。この事が永享の乱の要因の一つと考えられる。永享九年(1437)に鎌倉公方持氏が上杉憲実を暗殺するという噂が流れ双方の軍が鎌倉に集結し、不穏な状況となった。『鎌倉持氏記』・『喜連川判鑑』には持氏からの憲実討伐を命じられた上杉憲直(扇谷上杉氏)が六月十五日に相模藤沢逃れたと記され、また『永享記』には藤沢に逃れたのは憲実だったとしている。呉座雄一氏「永享九年の〈大乱〉-関東永享の乱の始期をめぐって-」『鎌倉』115号にこの時期憲実が兵を率いて藤沢にいた形跡があるとし、憲実と持氏の衝突は避けられない情勢となったと述べられている。同年七月に両者は持氏の妥協により和解するが、永享十年(1438)六月に氏満の嫡子賢王丸(足利義久)の元服を幕府に無断で行ったことで再び対立が生じ、憲実は同年八月に分国の上野平井城に逃れる。持氏は憲実追討のため近臣の一色直兼に軍を与え上野平井城へ差し向け、直兼は武蔵府中高安寺(東京都府中市)に陣を構えた。二十九歳になった憲実は幕府に救援を請う。この戦いで初めて幕府が鎌倉府を討伐するという永享の乱が始まることになる。 ―続く