鎌倉散策 鎌倉公方 十四、上杉禅秀の乱 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:鎌倉 田楽辻子のみち 上杉朝宗 犬懸上杉氏邸跡碑と滑川)

 関東管領の上杉氏は「康暦の政変」以降、鎌倉公方の対幕府への対抗心を幕府との関係において抑制、あるいは自制させる存在であり、特に山之内上杉氏はその立場を顕著に示した。幕府にとっては鎌倉公方と関東管領の二人三脚体制として機能することを求めていたが、四代鎌倉公方足利氏満の時期には、鎌倉公方と関東管領の関係は大きな変化をもたらした。

 応永二十三年(1416)上杉禅秀の乱が勃発し、鎌倉は大きな危機に直面するが、その規模が京都をも巻き込む大きなものになり、政治的変動を伴った。その乱の主体が、前管領の上杉禅秀(氏憲)で鎌倉が戦場となったのは建武二年(1335)の中先代の乱依頼八十一年ぶりの事で「鎌倉大乱」と呼称される。

  

(写真鎌倉 田楽辻子のみち、西御門大倉幕府跡碑)

 この乱の原因は、持氏と禅秀との対立の激化であり、禅秀は公方の地位を狙う満隆(持氏叔父)・持仲(持氏の異腹の弟で満隆の猶子となっている)と関係を結んでいたこととが大きな要因であった。しかし、関東管領職を継承する犬懸上杉と山之内上杉の権力が拡大し、対立的構造を生み出した点にもその要因がある。乱のきっかけは、応永二十二年(1415)四月二十五日に評定の場で、持氏は常陸の住人で在鎌倉衆であった越幡(おばた)六郎が病気を理由に出仕しなかったため所領没収と追放を行った。この裁断について禅秀は配下の越幡六郎であったために抗議し、処分の撤回を進言したが、持氏は耳を貸さなかった。これは持氏の前週に対する挑発と考えられる。同年五月二日、禅秀は関東管領を辞し、持氏はそれを認め、後任に山之内上杉の憲定の子・憲基が就いた。この時期の京都で将軍義持の異母定義嗣は、従三位参議まで任官されたが父義満の死で、その後の存在感をなくしてしまっていた。義嗣は、この鎌倉内の対立に乗じ、これを好機と受け止め側近の禅僧を鎌倉に送り禅秀に同盟謀反を申し入れ、禅秀と満隆が協調したことから京都を巻き込む大乱となった。

 

(写真:鎌倉 田楽辻子のみち)

 応永二十三年、禅秀は夏には死に瀕する病を理由に出仕を止め、出仕を嫡子・憲方に替わらせ持氏を油断させていた。禅宗は秋口から兵具を揃え合戦の準備を行いつつ、諸国の姻戚関係の有力守護の下総・千葉氏、常陸の佐竹(山入家)氏・大掾氏、甲斐・武田氏、東上野・岩松氏、下野・那須氏・宇都宮氏の諸武士団、そして奥州篠川御所の足利満直を開始蘆名、結城、石川、南部、葛西が禅秀に与した。同年十月二日の夜に西御門の保寿院(廃寺)で満隆・持中と合流し禅秀の軍による奇襲で始まった。氏持は、その動きに気付き、わずかな手勢で御所を脱出し、十二所経由で小坪に出て、海岸沿いから佐助谷にある管領憲基邸に着いた。憲基も急遽、館と北方の国清寺を固め、四日から禅秀軍の国清寺への攻撃により鎌倉での攻防戦が始まった。十月六日に本格的な両軍の合戦は由比ヶ浜で始まり、人的劣勢の持氏・憲基軍は扇谷上杉家の氏定など多くの有力武将を失い、国清寺に火が放たれ、管領憲基の佐助館に火が移り陥落した。憲基は持氏ともども小田原方面へ敗走する。禅秀の激しい追討を受けたが、箱根を超え駿河の大森館を経て、今川範政(持氏方の武将上杉氏定の女婿)のもとに身を置いた。一方上杉憲基は箱根で持氏とはぐれ、形勢を立て直すため領地の越後へと向かっている。鎌倉では持氏の叔父・足利満隆が主になるが、禅秀は持氏を取り逃がし幕府直属臣下の今川氏に身を委ねたことが、この乱に対しての危機感を感じ、禅秀に与した関東武

 京都に知らせが届けられたのは乱が発生した十日後の十月十三日であった。信頼できる『看聞日記』や『満済准后日記』の記事でさえ「二日に禅秀らの蜂起があり、四日には持氏以下、鎌倉中が焼き払われた」ことだけが伝えられ、蜂起の原因も「禅秀が持氏の母を犯したことを廻っての対立」と言う内容であり東国から錯綜した情報が次々にもたらされた。二十八日にようやく、持氏が今川範政のもとに身を置いた事と憲基が越後に向かった事が知らされる。乱の発生の知らせを聞いた当初から幕府においては良好な関係ではなかった鎌倉府に対し、どのような対応を取るか検討されていた。

(写真:田辺久子氏著『関東公方足利四代』 禅秀の乱における両軍配置図引用)

 『看聞日記』によると将軍義持の叔父足利満詮が「持氏は義持の烏帽子子であるというのに、なぜ見放しておかれようか」と言う強い提言により、情報の収集と関東諸家に持氏方へ支援要請を旨とする多数の書状を出し、駿河の今川氏信濃の小笠原氏、越後の上杉氏に持氏への助成を命じた。今川範政は幕府からの禅宗勢の追討の御教書がとどき、十二月二十五日に関東諸家に「回状」を出している(結城古文書写)。同年(1418)十二月二十三日持氏は今川軍を主力とする幕府軍と共に駿河瀬名を発ち(「皆川文」)、翌応永二十四年(1417)年明け早々、持氏軍は小田原合戦に勝利し、相模に入った。その知らせを聞いた禅秀方武士の大半が持氏に寝返り、禅秀・満隆・持中は孤立していく。氏持は越後からの上杉憲基軍と鎌倉を北と西から攻める挟撃戦で鎌倉を奪還した。禅秀に与していた関東武士たちは、「回状」により「軍忠」に関し記載された一時の「逆心」の加担はこれを不問に付し、「返忠」を認め、上意の幕府将軍が、関東武士たちの再生を保証したことにより、その後持氏側に加担し、同年正月十日、与していた諸士が持氏方に着いたことを知った禅秀・満隆・持中(持氏の異母弟で満隆の猶子)は孤立し、鶴ケ丘の雪ノ下御坊で自害して果てた。

 

 ほぼ三か月ぶりに鎌倉に戻った鎌倉公方足利持氏は廃塵となった鎌倉の再建であったが、それ以上に執着したのが禅秀与同者たちへの討伐であり、応永二十四年(1417)から同三十年の六年間を関東各地で転戦した。この事が永享の乱の要因の一つと考えられる。 ―続く