鎌倉散策 鎌倉公方 十三、四代鎌倉公方足利持氏と将軍義持 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 京都では四代将軍義持の施政は。父義満の全否定からはじまっている。応永十七年(1410)、五月に斯波義将が死去。七月に斯波義淳(よしあつ)から畠山満家に改替、十一月に後亀山天皇が出奔し、吉野に潜幸し、六年間吉野で過ごしている。伏見天皇の『看聞日記(かんもんにっき)』には、生活上困窮するが当時の幕府との和睦条件の一つに両統送立を破り、後小松天皇の皇子・躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論み、動静に不満を抱く後亀山天皇の抗議行為であったと考えられる。

 

(写真:京都 法観寺の塔と周辺)

 鎌倉では応永十七年(1410)八月十五日、第四代鎌倉公方・足利持氏の叔父足利満隆謀叛の噂が流れ、持氏は上杉憲定の山之内邸に避難した。九月三日には、謀反の噂は流言飛語であると解り御所に戻っている。『鎌倉大草紙』は憲定が取り持ち、満高が陳謝したため大事はならず収まったと記されているが、江田郁夫氏「上杉禅秀の乱と下野」『栃木県立文書館研究紀要』には、この事件には憲定の後に管領上杉禅秀(犬懸家)と満隆が連携していたことを指摘されている。「生田本鎌倉大日記」は憲定の関東管領辞任を応永十八年正月十六日とし、禅秀の就任は同年二月九日としている。しかし、実際には前年の応永十七年十月十一日に禅秀の管領在職の微証が鎌倉市図書館文書に残されており、満隆謀叛事件と時期を同じくしている点、満隆謀叛は満隆と上杉禅秀とが行った事件であったと推測している。鎌倉府において鎌倉公方足利持氏は最も不安定な時期に就いた。このころ持氏は十四歳で禅秀は生誕が不明なため断定はできないが、四十半ばであったと考えられ、持氏は実権を掌握する禅秀を疎ましく思い、禅秀と対立していたとされる。

 

(写真:鎌倉 岡八幡宮)

 応永二十年(1413)伊達政宗の孫の持宗が篠川・稲村御所を襲撃し大仏城(福島県福島市)に立て籠もった知らせが二階堂氏から届いた。鎌倉府は畠山国詮(二本松氏の祖)を大将に討伐軍を派遣する。当時奥州で唯一鎌倉方であった白川結城氏は出兵の命を受けるが、その誘いに乗っていない。同年十二月二十一日、大仏城の立て伊達持宗は兵糧が尽き退去し、一応鎌倉軍の勝利で終結した。畠山国詮は鎮圧に手間取ったとして、しばらく持氏から出仕を止められたという(喜連川判鑑)。また、白川結城氏に対して、同年十二月二十九日持氏御教書写」と「結城古文書写」より「以前御教書を成さると雖も、今遅参せしむと云々、はなはだ然るべからず」と持氏は白川結城氏を咎めている。また、篠川・稲村両御所が鎌倉府側の立場として、この討伐に参戦した形跡は見られない。両御所はすでに十数年、この地に滞在し、鎌倉公方から独立した支配体制を目指していたと考えられ満直は幕府に密かに陸奥の支配権を要望していたとされる。鎌倉公方足利持氏は結城満隆、そして叔父の満直、満貞においても命令権を行使できない状態であったようだ。そして関東管領上杉禅秀との不和により伊達持宗の追討も行うことができない状態であった。禅秀は満隆・持仲(持氏の異母弟)と関係を結んでいたため持氏との対立は激しくなっていく。そして持氏は、憲定(山之内上杉)の子息憲基を重用するようになる。

 

(写真:岩手八幡平と北上川)

 応永二十二年(1415)四月二十五日に評定の場で、持氏は常陸の住人で在鎌倉衆であった越幡(おばた)六郎が病気を理由に出仕しなかったため所領没収と追放を行った。禅秀配下の越幡六郎であったため、その裁断に抗議し、処分の撤回を進言する。しかし、持氏は耳を貸さなかった。五月二日、禅秀は関東管領を辞した。持氏はそれを認め、後任に山之内上杉の憲定の子憲基が補任された。持氏は十八歳、憲基は二十四歳であった。

 

(写真:ウィキペディアより京都金閣寺、足利義満像)

 京都では将軍義持の弟(異腹)義嗣・義教は、本来出家して僧侶になるはずであったが、義嗣は義満の偏愛により、元服前でありながら義満に連れられ参内し、「童殿上」と呼ばれる異例な状態であった。将軍及び鎌倉公方のみが任官できる正五位左馬頭、従四位下、そして将軍のみ任官できる官職の左近衛中将に任じられる。元服前としては前例が無い異常な状況であった。そして応永十五年(1408)四月二十五日に内裏の清涼殿で元服を行う。これは親王、摂関家並みの形式で、その夜に従三位参議に任官している。しかし、義満は義嗣元服後の三日後に病床に就き五月六日に死去した。義満は簒奪を意図とし、義嗣を皇位につけようとしたとも考えられ、様々な見解が示されている。  

石原比伊呂氏は皇位簒奪を否定し、後継者である義持の負担を軽減させる方針で行われたとみている。しかし、後に義持が父・義満の朝廷関与の在り方を否定し、生前に義満が「太上天皇」の尊号が贈られないか朝廷に働きかけていたが、死後五月九日に朝廷から「太上天皇」の尊号が贈られた。しかし、将軍足利義持と幕府管領斯波義将が「先例なし」として辞退し、宣下自体が無かった事にされ、北山台を除き義満により作られた建造物を取り壊している。負担軽減であれば、義満、義持、義嗣の三者による懇談があって当然だが、それを示す資料もなく、義持の義満死後の行動を見ると義持と父義満の関係は険悪感を感じる。そして、義持が禅秀の乱に関与していた義嗣の排除に至った。

 

(写真:北鎌倉 明月院)

 応永二十三年(1416)十月二十九日深夜、足利義嗣が高尾山神護寺に出奔し出家をしている。上杉禅秀が鎌倉公方持氏を襲撃した政変が鎌倉で起き、幕府は鎌倉公方持氏の支持を決めた日であった。義嗣は、妾が禅秀の娘であるため、自身の関与を否定するため出奔・出家に踏み切ったと考える。将軍義持が禅秀の乱に義嗣が関係していたとして拘束し、十一月には義嗣は相国寺に幽閉された。細川満元、斯波義重、赤松義則が事件に関与したと嫌疑が上がるが、山科教孝、日野持満が加賀へ配流となり、途中で殺害されている。また義嗣は応永二十五年(1418)一月二十四日義持の命により富樫満成が殺害もしくは自害させている。義嗣、享年二十五歳であった。そして、応永二十三年(1416)鎌倉府におきた上杉禅秀の乱に幕府の討伐が行われる。

 

上杉氏系図

重房―頼重――憲房――憲顕――能憲――憲孝―憲定…憲正=輝虎

      |   |(山之内上杉)|―憲春  ↑         (謙信)

      |   |            |―憲方―憲孝

      |   |

      |   |―憲藤―――-―朝房

      |   |(犬懸上杉) |―朝宗―氏憲――憲方

      |   |          (禅秀)|―憲春

      |   |                                  |―持房

      |   |                                  |―教朝

      |   |―重能=能憲

      |     (宅間上杉)

      |

      |―重顕=朝定=氏定―――持朝―顕房―政真=定正

                 (扇谷上杉)     |―持定