義堂周信は二代鎌倉公方足利氏満に唐の太宗と臣下との問答や君臣の事跡を編纂した「貞観政要」を氏満に為政者の参考に、また父基氏の施政を見習うよう様々な教導を行った。そして鎌倉府においても、関東管領においても重き人物であったことが示されている。しかし、康暦元年/天授五年(1379)反頼之派は、義満に対し細川頼之の排斥・討伐を要請し近江の反頼之派の佐々木高秀が挙兵し、康暦の政変が起こった。先章で記述したが、氏満二十一歳であり、上杉憲春の諫死、将軍義光と連携した憲方の関東管領就任により、上洛を踏みとどまらせた。康暦の政変の関与を疑われ、氏満は義満に謝罪の書面を送る。その上、義堂周信に上洛の命が出された。心の死であった義堂が去り、将軍方の関東管領、上杉憲方により次第に反幕府の体制へと変化し、やがて子孫は幕府と反目していくことになる。
(写真:鎌倉 瑞泉寺)
康暦の政変の翌年、康暦二年(1380)関東の優族小山義政の乱がおこった。発端として、康暦二年/天授五六年(1380)五月十六日、下野国で小山義正が宇都宮基綱を攻め敗死させた事である。基綱は薩捶山体制の担い手の宇都宮氏綱の子息で、上杉憲明の復権後、越後・上総の守護を解かれ、越後守護代の芳賀氏が蜂起し基氏に追討され、氏綱は責任を芳賀禅可に着せた。その後、足利基氏に仕え子息基綱が家督を継いでいた。小山氏は武蔵国を本領とする藤原秀郷の末裔の地方豪族で鎌倉期には源頼朝の御家人として挙兵時から従事していたが、鎌倉末期に後醍醐帝の論旨に合わせ挙兵する。しかし、尊氏が建武政権から離反すると尊氏派に与し北畠親房・顕家親子の東国経営に抵抗する中心的存在になっていた。しかし小山朝氏が北畠顕家軍に小山城で敗れ生け捕られた後、同族の結城宗広の嘆願により赦免された経歴を持ち、その後は中立的立場を貫く。親房に参陣の命にも曖昧な態度を示し、所領の一部を結城朝親に預け置かれている。弟の氏政が高師冬方に付き、「兄弟合戦」と称するほど朝氏と対立していき深刻化していった。北畠親房が常陸国を去り、貞和二年(1346)四月に実子がなかった朝氏が没すると、その後を氏政が継承し、文和四年(1355)七月に氏政が亡くなると嫡子義政が家督を継承している。足利基氏が宇都宮氏綱討伐の際に小山氏の館に陣を張り、下野国での小山氏の重要性を認めていた事が窺える。その後、貞治六年、下野国守護に任じられた。
(写真:鎌倉 瑞泉寺 キキョウ ヒメヒオオギスイセン)
宇都宮氏綱は芳賀禅可の誅伐において失脚したが、その後、二代鎌倉公方基氏に恭順の意を示し、嫡子基綱の「基」の一字を賜ったとされる。一族の中には義堂周信のもとに出入りする者も現れ、基氏の時代には、すでに鎌倉府との関係は改善していたとされ、薩捶山体制下において重責を担っていた宇都宮氏は観応の擾乱での恩賞を受けた物をほとんど失ったが、体制変更の影響を受けずに小山氏は発展を遂げ、鎌倉府にとっては危険視された。幕府にとっては鎌倉府を牽制するために小山氏は丁度良い存在だったのかもしれない。『鎌倉大草紙』には小山義政が吉野方(南朝方)と号し逆進したため同国豪族宇都宮基綱が退治しようとした為ともある。また異説として氏満が恭順を示させるために小山義政に宇都宮基綱を討たせ、その後、義政を討つ面目とした等。
小山義政は、すでに下野国守護の任に就き、貞治六年には下野守に任じられていたが、永和三年/天寿三年(1377)十一月十七日に下野守に小山義正と宇都宮基綱を任じており、基綱を置くことにより義正を牽制しようとしたことである。当時においては小山氏と宇都宮氏の所領等小山氏の方が格段多く、基綱の下野国在任期間は氏満の康暦の政変の失策により終了しているが、小山義政にとっては氏満の不信感と基綱に対する反発が基綱討伐の要因だったと考えられる。両社の領地が接し、下野守をめぐる確執が私闘として、次第に激しさを増し、鎌倉公方氏満は厳しく制止を命じたが、康暦二年/天授五六年(1380)五月十六日、下野国裳原(もばら:栃木県宇都宮市)で小山義政が宇都宮基綱を討った。
櫻井彦氏『南北朝の内乱と東国』において「この小山正義の強硬な姿勢の背景には、義正と京都との間に構築された良好な関係が存在した。義政は、幕府に対して、しばしば馬を献進しており、積極的に幕府との関係を築いて行ったと思われる。義政には鎌倉公方氏満よりも将軍義満を主とする意識が強く、康暦の政変への関与を疑われた氏満が義満に謝罪するというタイミングで行動を起こしたのかもしれない。義満が康暦二年/天授五六年(1380)二月十三日、恩師ともいえる義堂周信を京都建仁寺へ招聘した事への反発と、義政の意識を敏感にかぎ取った氏満は、討伐礼を発布したのであろう。」と記述されている。宇都宮基綱も幕府側への人的構築を行っていた。『続群書類従』所収の「宇都宮系図」には基綱の母は斯波義正の父高経の娘とし、基綱自身は細川頼之の弟の頼元の娘をめとっている。しかし、康暦の政変で細川範頼を失脚させた中心人物が斯波義政であるため、複雑な状況であったと考える。
(写真:鎌倉 瑞泉寺)
同年五月十六日、小山義政の乱がおこり、僅か半月後の六月一日に関東諸国に義政討伐礼を発布した。この討伐に対し氏満の正当性は感じられる。しかし、小山義政の、子・若犬丸の乱が継続して北関東から南奥州にわたり反鎌倉府を示す武士の十七年間の戦闘が継続していくことになる。六月十五日、上杉憲方、上杉朝宗、木戸法季が鎌倉を発ち、府中・村岡を通り小山に向かった。七月十四日、氏満の使者が京都に着き、義満に武力行使の許可を求めたとされる。そして義満からの許可を求めたうえで八月十二日、大聖寺(栃木県小山市)で合戦が行われた。義政は、若干の抵抗は示すが将軍義満の援助が無い事を悟り降伏を申し出る。氏満は義政の降伏を直ちに受け入れ徹底的な討伐を行わず兵を引いた。しかし、義政は参陣を待つ氏満の下には現れず、氏満は京都に使者を送り義政再討伐と白旗一揆の動員の許可を義満から得て永徳元年/弘和元年(1381)二月、上杉朝宗、木戸法季を大将として氏満も同行し追討軍を発した。白旗一揆は、上野・武蔵にまたがる広範囲に拠点を持つ武士の集団で貞和四年/正平三年(1348)四条畷で楠木正行を討った高師直・師安に従軍している。本来、白旗一揆は幕府に忠実で武蔵の合戦など広範囲の地域で戦闘に出た大規模な集団であり、氏満は義満の配慮と義政討伐の正当性を得る事であったと考えられる。
武蔵国で義政の乱に乗じ南朝方が蜂起した。しかし、義正は南朝方に与する事は義満の擁護の期待を無くす事を意味し、同年六月十二日、本沢河原(栃木県小山市)を皮切りに各所で戦いを展開し八月には義政居城の鷲城の外郭を落とした。この戦いで白旗一揆が参戦している。一度目の抵抗より激しい抵抗が行われたが、白旗一揆の動員もあったためか十二月八日、義政は出家隠棲と嫡子若犬丸の鎌倉府の出仕を条件に降伏した。約束通り鷲城の明け渡し、義正は祇園城(小山城)に入りすべての支城を開放している。そして剃髪し永賢と号し十二月十三日犬若丸は十三日、三人の従者と献上品を持参し出仕した。しかし永徳二年(1382)三月二十二日、永賢(義政)と若犬丸は祇園城に火を放ち出奔し、三度目の反旗を翻した。 ―続く