鎌倉散策 鎌倉公方 八、足利氏満、上杉氏と義堂周信 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:北鎌倉 明月院)

 将軍足利義満と鎌倉公方の立場と関係を示すため前章で康暦の変を述べてが、足利氏と上杉氏の関係を見るため少し歴史を戻ってみる。貞治六年/正平二十二年(1367)、『後愚昧記』五月二十八日条に「関東の事成敗のため云々」、『愚管記』五月二十九日条、「故武衛の遺跡の事等毎時執沙汰のため」、『師守記』「大樹の使節として関東に下向」基氏が死去した一ヵ月後、京都からこの年七十二歳の佐々木道誉(高氏)が鎌倉に下向したとされる。『佐々木文書』により義詮から関東の事を執ることを命じられ鎌倉に下り、九月の鎌倉材木座の返付を義詮から認められた。「塙文書」には十二月十二日伊豆守護・高崎氏重に対して下地沙汰付命令の奉書を出している。しかしこの時期、上杉憲顕は基氏死去の事後処理と氏満の後継問題により上洛しており、鎌倉を留守にしていた。その間における道誉の派遣だった可能性が高く、正式に道誉が関東管領に就任したかは定かではない。この事などで関東管領の就任権は幕府が握っていた事が窺える。当時、関東において、上杉憲顕の復帰で薩捶山体制が崩壊したが、それに対し不利益を被った者もいたため、室町幕府の対応策であったと考えられる。この後に起こる平一揆などが、その例の一つである。京都では、応安元/年正平二十三年(1368)三月、畿内では後村上皇崩御、幕府は細川頼之の無く府官僚として半済令等を発行していた時期である。室町幕府の完成期に入り、南朝側は衰退していき、後に南北朝合一を迎える時期に入っていた。

 

(写真:北鎌倉 明月院)

 貞治六年/正平二十二年(1367)十二月七日に義詮が死去した後、義満はわずか十歳で家督を継いでいる。上杉憲顕は義満家督相続を賀するために応安元年/正平二十三年(1368)正月二十五日に上洛する。その上洛した同年三月に平一揆・宇都宮七族の連携の蜂起が起こる。平一揆は、本来武蔵・相模両国の平姓武士の集合体であり、尊氏直轄軍として編成されなおし、基氏もその存在を活用して鎌倉公方の地位の強化を図ったとされる(櫻井彦氏『南北朝内乱と東国』)。憲顕復帰後に旧直良派が復権したことで薩捶山体制の担い手であった宇都宮氏綱が失脚し、平一揆の中心人物河越直茂は相模国守護を奪われた。しかし平一揆を構成する高坂氏重は伊豆国守護に残されている。小国治寿氏(2001年)は、その政治的背景には、尊氏(将軍家)の直轄軍と位置付けた平一揆の中心人物を基氏の近臣であった高坂氏重に変更することで、基氏自身(鎌倉公方)の直轄軍へ変質させる意図があったと説明されている。

 

(写真:北鎌倉 明月院)

 平一揆の蜂起の知らせを受け上杉憲顕は即刻三月二十八日京都を出て鎌倉に戻る。この蜂起は上杉氏の関東進出における権勢喪失の危惧があり即刻鎌公方金王丸(氏満)を擁して武蔵・下野に向け進軍した。上杉氏の一族をかけての総力戦と言って過言ではなく、憲顕の復帰に伴い越後・上野両国の守護を失った宇都宮氏綱にとっては平一揆の上杉憲顕排除の気運に乗ることで復権を求め連携し蜂起した事による。そして応安元年/正平二十三年(1368)六月の河越合戦、八月の宇都宮合戦で上杉氏は両勢力を鎮圧した(『神奈川県史』)。上杉憲顕は宇都宮氏綱を降伏させた後、同年九月十九日に六十三歳で死去している。後人の官僚は憲顕の子・能憲(宅間上杉氏重能の養子になっていた)と朝房(憲顕の女婿)が並んで就任し、幼い金王丸(氏満)を補佐して「両上杉」と称された。これに於いて関東管領は上杉氏の世襲とされ、後に拡大する上杉四氏による権力闘争も出現していくことになる。

 

関東官領就任社系図(貞治五年から明徳三年)

―――憲顕(1)―能憲(2)―憲孝(6)

 |     |―憲春(4)  ↑

 |     |―憲方(5)―憲孝

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 |―憲藤――――朝房(3)

 

 応安二年/正平二十四年(1369)十一月二十一日、金王丸は十一歳で元服し氏満と名乗った。前年元服した室町幕府三代将軍の義満から慣例的に一字「満」を与えられた命名であったと考えられるが、それを示す資料は無い。氏満は幼少において、上杉憲顕に支えられ、憲顕死後は先述した能憲と朝房が補任され、補佐されたが、朝房は、氏満元服後の応安三年/兼特元年(1370)八月に上洛のため辞任を提出しているが、認められたか否かは、定かではない。『足利治乱記』には、応安六年十一月に西国鎮圧に向かう将軍義満の留守を任せるため関東官領上杉朝房を召し上げたと記されている。上杉能憲や義堂周信の慰留によって在職を続けたのかもしれない。能憲は永和四年/天寿四年(1378)四月十七日に享年四十六歳で死去。朝房(犬懸上杉氏)は元中八年/明徳二年(1391)に京都で死去されたとあるが没年に関し異設が多く存在する。能憲が天寿二年/永和二年(1376)に病床であった兄の能憲から所帯等を譲られたが死没直前に能憲が勤めていた上野守護や能憲の所領も能方が知行すべき分として譲られた。能憲には子息がなく憲方の子憲孝を養子に迎えており、能憲死後の関東管領には憲春が任じられたが、山之内上杉家の家督は能方に譲られた。憲春は康暦の変に乗じて上洛しようとした氏満に対し諫めるため、康暦元年/天授五年三月七日に諫死している。

 

(写真:鎌倉二階堂 瑞泉寺)

 故基氏は夢窓疎石の弟子・義堂周信に帰依し、精神的支柱として、また友人の如く接したという。そして基氏の嫡子氏満には教育係として接している。『空華日用工夫略集』に応安二年正平二十二年(1369)正月十八日、鎌倉府に赴いた義堂は氏満とその母の清渓尼相見え、清渓尼は「子なを幼くし、国を治め家を保つこと如何に」を問い、義堂は「仏を敬い僧を崇び民を恵めば、国家令せずして治まらん」と答えた。応安四年二月十八日に氏満と談話の際、「およそ天下国家を治るに、文を以てせざるは無し、先君專ら文学に慎む、願わくは業を継ぎ以てし外護の望みに副はんことを」と論し、氏満も頷いたという。応安五年二月十日、唐の太宗と臣下との問答や君臣の事跡を編纂した「貞観政要」を氏満に為政者の参考にされたしと渡している。応安七年/文中三年十一月二十三日鎌倉山之内の円覚寺が宗派の派閥対立により放火炎上した。義堂は去延文三年正月京都天竜寺が火災にあった時将軍尊氏がその修造のため田地を寄進した例に倣う事を促し、氏満は了承している。永和元年/天寿元年(1378)十二月二十三日、故上杉清子(尊氏・直義の母)の三十三回忌が瑞泉寺で行われ、管領上杉能憲が義堂に対し政務を補佐するよう依頼するが、義堂は自分の職分を超えた他人の仕事に手を出すことはしたくないと断っている。能憲は「仏法は慈悲を似て本となす、君を輔け民を救うのは、あに慈悲にあらずや」と迫ったが、義堂は基氏の在りし日の様子を話し、基氏が暇な日がなかったほど禅を談じ書を講じた日々を見習うべきであると説き続けた。応安八年七月十三日、氏満は自国の政要を義堂に問う。義堂は天下を治るは文武二道、武は則ち治乱のみ、文は為政の術なりと説き唐の太宗の故事を語っている。人の上に立つ者は下を憐れみ、下たる者は上を敬うと言う事は、学んで初めて知りえるものであると述べ。治世初期の氏満は、義堂から種々の教導を受けた。 ―続く

 

(写真:鎌倉二階堂 瑞泉寺)