鎌倉散策 梅雨明けの二階堂 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 

今年は、関東甲信は六月十四日に梅雨入りし、七月十六日に関東甲信の梅雨明けが発表された。関西・東海の梅雨入りが五月の中旬で、以上に早かった分、気分的には長く感じられた。関西・東海の梅雨入り後、鎌倉では、一週間のうち一日中晴の天気は少なく、週の一日は晴れ時々曇り、二日は晴れのち曇り、二日は曇り、残り二日は雨と言った天気で、出かける時には折畳み傘が必要だった。しかし、梅雨明けまでは比較的涼しく、過ごし易い日が続いた。結果的には鎌倉の梅雨は長いようで短かったと言わざるを得ないが、近年この時期に大きな災害をもたらす。異常気象が原因だろう。そして今年もかなりの猛暑が続くと予想されているので、コロナ禍において様々な災害や体調管理が必要になってくる。災害に合われた方にはお見舞い申し上げます。

 

 私が鎌倉に来て三度目の夏を迎えるが、山崎の私の住居を出たところの崖の斜面に野生の山百合が咲く、一年目は一株だったが、その美しさは可憐であり、春の著莪(シャガ)、そして初夏の山百合は大好きな植物である。昨年は、全く咲くことがなく寂しい思いをしたが、今年は十株ほど二・三週間、順に咲いてくれている。多いときは六株十八輪ほどの花を咲かせていた。余り日差しが強くなると白い花は焼け付くように茶色に変わり枯れていく。日陰だと三週間くらいは、その美しさを見せてくれる。そんな自然豊かな鎌倉である。

梅雨が明けると暑中見舞いの時期になる。二十四節気で言う小暑の七月七日ころから立秋の八月七日の前日までとされるが、相手先の梅雨明け後に出すのが慣例となっている。八月七日を過ぎて八月中は中残暑見舞いになる。この暑中見舞いの風習も年々少なくなり、いずれ無くなる文化だろう。

 

 

 七月十七日から今日まで鎌倉は快晴の天気が続き、急激な暑さが襲い、先日までの涼しかった分、体が慣れないせいか非常に辛い。十七日の土曜日は、あまりにも快晴の天気につられ二階堂を歩くことにした。バスで鎌倉駅に行き、そこから大塔の宮行バスに乗り、大塔の宮(鎌倉宮)で降りる。大塔の宮、覚園寺、永福寺、瑞泉寺と歩く。これらの寺社については、鎌倉散策に掲載しているのでまたお暇なときは見ていただければ幸いです。二階堂は緑も多く品の良い住宅が並ぶ。木陰も多いため夏場や秋の紅葉が綺麗なところである。覚園寺はその住宅地を北に十分ほど行くと山門が見えてくる。八月十日に黒地蔵縁日が開かれ深夜零時から始まる。昨年と今年も深夜の巡礼はコロナ禍において僧侶だけとなるが、十日の六時から正午までは巡礼できるとの事である。この日、その準備など僧侶の方々がされていた。この覚園寺は宗派古義真言宗潜入自派の寺院で山号寺号を鷲峰山(じゅぶせん)真言院覚園寺と言う。創建は永仁四年(1296)で、開山は智海心慧(ちかいしんえ)、開基は北条貞時で再度の元寇襲来がないことを祈り寺に改めたとされる。本尊は薬師如来である。  

 

 覚園寺は健保六年(1218)北条義時がこの地に建立した大倉薬師堂が前身とされる。『吾妻鏡』十二月二日条「右京町(北条義時)が霊夢により創建されていた大蔵の新御堂に、薬師如来像〔運慶が造り奉った〕が安置され、今日供養が行われた。導師は荘厳房律師行勇、呪願(じゅがん)は円如房阿闍梨遍曜、堂達は頓覚房良喜(鶴岡若宮の供僧)であった。施主(義時)とその際室(伊賀氏)らが簾中に着座し、相州(北条時房)・色部大夫(北条泰時)・陸奥次郎(北条)安里喜が正面の広廂(弘微差氏)に着座された信濃守(二階堂)行光・大判官(二階堂)行村・大判官(加藤)景兼以下の御家人が結縁のために群参した。源筑後前司頼時・美作左近大夫(源)朝治親・三条左近蔵人親実・伊賀左近蔵人(藤原)仲能・安芸権守(藤原)範高らが布施取を務め、それぞれ堂の南の仮屋に祇候した。戌の刻に供養が終わり、導師(行勇)以下にご布施が贈られた。」と記載がある(五味文彦・本郷和人編『現代訳語吾妻鏡』)。

 

 

 三代将軍源実朝が甥の公暁に惨殺される前年であり、健保六年(1218)実朝の鶴岡八幡宮参詣の折北条義時の夢枕に戌神将(薬師如来に従う十二神将に一つ)が現れ「来年の参拝には加わってはならぬ」と告げられ、義時はこれを信仰する薬師如来のお告げと受け止め、大倉に資材を投じて寺を建てたという。承久元年正月二十七日、鶴岡八幡宮参詣が行われ「(鶴岡八幡)宮寺の楼門に(実朝が)入られたとき、右京兆(北条義時)は急に心身が乱れ、(実朝の)御剣役を仲章朝臣に譲って退室され、しばらくして(実朝が)退室されたところ鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段近くに隙を見て近寄り券を取って丞相(実朝)を殺害した。」この事で現在でも義時黒幕説が論議されている。私はこの覚園寺が大倉の新御堂、薬師如来像が安置されたと言う事に疑問を持っている。現在の覚園寺がある地は頼朝の時代に中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して永福寺が創建され、その寺院が二階建ての仏堂であり、『吾妻鏡』文治五年受二月九日条に「別称として二階堂と号することになった。」ときされ、現在の鎌倉宮も医王山東光寺跡に創建され、二階堂の地であったとされている。大倉は現在の清泉小学校の厚地で大倉幕府跡周辺を指すその周囲に白幡神社や法華堂跡があり源頼朝、北条義時の墓が残されており、大倉の地から二階堂の地に薬師堂が移された可能性があると考える。

 

 二階堂の散策は、その後、鎌倉宮に戻り永福寺跡から瑞泉寺まで歩いた。非常に良い天気で湿度も低く風が気持ちよく吹いていたため暑さは、そう気にならなかった。残念な事一つあった、何時も瑞泉寺や獅子舞方面を歩く時に「もみじや」と言う関西風のうどんを食べさせてもらえる店があり、奥さんが京都伏見の御出身だったため味は本物の関西風で、出汁が非常においしかった。今年の二月に窺い食べさせていただいたが、このコロナ過であり、御高齢だったこともあり三月末で店は閉じられていた。鎌倉も個人で営まれている食事を出すお店が次第になくなり、洋風の店や、古民家喫茶ばかりが増えてゆく。何か寂しさを感じた。