初代鎌倉公方足利基氏が貞治六年/正平二十二年(1367)四月二十六日、享年二十八歳で死去。死因は『師守記』『細川頼之記』に当時流行っていた「赤斑瘡所労」(はしか)とされる。『難太平記』では、鎌倉の事を義詮が敵対勢力とみていると考えた基氏が自らの死を祈り義詮に先立って自殺したとの説をほのめかすが、あくまでも伝聞で真相は定かではないとしている。
(写真:鎌倉 瑞泉寺)
当時の義詮と基氏の関係は、お互い観応の擾乱で薩捶山体制を変革し、上杉憲顕を復権させ、基氏が兄義詮の同意を求めて行ったことから良好な関係であったと窺え、また、基氏の死期や葬儀、法要を見ても『難太平記』の自殺説は考えることはできない。死期が迫る中、同二十四日基氏は義堂を病床に召して後事を託した。基氏死去の報は速やかに京都に伝えられ、近衛近継は「愚管記」に「早世す、去廿六日の事也と云々、春秋二十八、所悩五ケ日、二十六日晩陰に及び事キルと云々」。三条公剛の『後愚昧記』に「去二十六日刻剋と云々、左兵衛督基氏卿、卒去し了と云々、天下の重事これに過ぐべからず歟」。中原師守は『師守記』に「去る月廿六日申剋薨去すると云々、年二十八」と記している。『訓注日用工夫略集』貞治六年六月十一日条には、義詮は弟が死去した知らせを聞き等塔寺での仏事を中断し自邸に去年(貞治五年)八月十五日に八幡宮に金滕書(金の帯で封滅緘した箱に入れた書)を納め、そこには兄弟(義詮と基氏)相譲り死すとも変わらじと誓うと書かれていたという。同年五月四日、武家に弔意を示す勅使が送られ、公家雑訴停止七ヶ日が決定された(『師守記』)。五月二十九日に義堂は、不聞の「御霊前で偈を一遍詠む」との請いに歌を詠んでいる「国家の礎の基氏公は、二十八歳ではかなく亡くなられた、周の召公が善政を敷いためでたい泉は昔のように湧き、泉源は遠く(源氏の基氏公は遠い存在となり)流れの長い(子孫繁栄)を見る(『訓注日用工夫略集』)。庶民に心を向け、仁慈の行政を行い、二十八歳と言う若さで没した基氏を偲んで葬儀などに際し鎌倉五山等の僧侶たちが法語を寄せたと田辺久子氏の『関東公方足利四代記』で述べられている。
(写真:鎌倉 浄明寺)
足利氏満は足利基氏と畠山家国の娘との間に生まれた調子であるとされるが、他にも兄がいたという説や妹が六角光高室あるという諸説あり、ここでは触れずに進める。氏満の母は畠山家国の娘で、基氏の誅伐を受けた国清の妹清渓尼で基氏の正室とされる。足利氏満は延文四年/正平十四年八月十二日に長子として生まれ、幼名が金王丸であった。父基氏が亡くなった時、金王丸は九歳で基氏遺言により継嗣される。上杉憲顕は氏満の扶持を託した基氏の遺言を、将軍義詮が了承して、関東公方基氏から氏満への世襲が実現し、以後親から子へ世襲されていくことになる。また、この事により関東における公方の足利氏の権威を醸成してゆくとともに。足利氏直系の将軍家に対する対抗意識も増長させていくことになった。
(写真京都 石清水八幡宮)
京都では、貞治六年/正平二十二年(1367)室町幕府二代将軍足利義詮は側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男義満を細川頼之に託し十二月七日に死去している。享年三十八歳であり、死因は定かではないが、死の二日前に多量の鼻血を出していることから急性白血病ではないかと言う説もある。義満は延文三年/正平十三年(1358)足利義詮と石清水八幡宮善法寺通清の娘紀良子(順徳天皇の玄孫)の間に生まれ、幼名が春王であった。義詮の正室渋川幸子との間に生まれ千寿王が夭折したため義満が嫡男として取り扱われている。義詮死後、家督を継ぎ応安元年/正平二十三年(1369)十二月三十日義満は朝廷から征夷大将軍の宣下を受け室町幕府三代将軍に就いた。同年二月に弟義詮基氏が亡くなって跡を継いだ二第鎌倉公方氏満は義満の一歳年下になる。
(写真:京都御所)
義詮の死後直前まで四国・中国地方で南朝側と戦っていた細川頼之が佐々木堂誉などの反斯波派の支持を得て室町幕府管領に就任した。幼少の三代将軍義光を補佐しながら半済令の試行(応安大法)や九州探題今川了俊の任命・派遣などの政策を実施するが、旧仏教勢力比叡山と新興禅宗南禅寺との対立に南禅寺川を擁護ししたため対立を深めていた。永和四年/天寿四年(1378)紀伊国において南朝方武将橋本正督に対し細川頼之の弟で養子の頼元総大将として派兵するが諸将が命令に従わず鎮圧に失敗する。十二歳に成長した義満は反頼之派の山名義理・氏清兄弟、斯波義将、土岐頼康ら反頼之派を派遣した前年に斯波義将の所領内の騒動が細川頼之の領地太田荘)現富山県富山市)に飛び火して細川派と斯波派の抗争が表面化していった。康暦元年/天授五年(1379)判頼之派は、義満に対し頼之の排斥・討伐を要請し、近江の反頼之派の佐々木高秀が挙兵する。この時、鎌倉公方氏満は将軍職を狙いこれに呼応して派兵を考えた。三月八日、関東管領上杉憲春が氏満の行動をいさめるため諫死する事件が起こっている。それにもかかわらず氏満が上杉憲方に出兵を命じた。上杉憲方は、かねてから関東管領を狙っていたたとされ、伊豆まで兵を進めると密かに義満と交渉を始め義満から関東管領の御内書を得たて、直ちに鎌倉に戻り四月三十日に氏満に迫り管領就任を認めさせている。
(写真:京都 東寺と永観堂)
京都では四月十三日、義満が斯波義将らの圧力で佐々木高秀・土岐頼康らを赦免させ、義将ら反頼之派は軍勢を将軍邸の花の御所に向け、包囲してしまった。そして、反頼之派は義満に頼之の罷免を迫り、閏四月十四日義満は細川頼之を罷免する。頼之は自邸を焼き一族を連れ両国の四国に落ち、その途上出家をしている。これが康暦の政変であり、頼之派であった者が、多数斯波派に移り。政変後、大幅に守護改替えが行われ斯波派の大名への加増がほとんどであった。その後、氏満の反乱未遂事件に対し佐藤進一氏は斯波派の勧誘と扇動があったとしている。義満は氏満に対し圧力を強め氏満は謝罪の起請文を送っている。また義満は、氏満の教育係であった義堂周信を強引に京都に招聘し、関東官領上杉憲方(憲春の兄弟)が幕府寄りの対応を求めるようにもなり、鎌倉公方と関東管領の対立も発生していくことになった。 ―続く
(写真:鎌倉 鶴岡八幡宮)