鎌倉散策 鎌倉公方 六、足利基氏の死 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 観応の擾乱で失脚した上杉憲顕は、十余年になる隠棲生活を以前守護であった越後国で送っていたとされ、その間出家を遂げている。延文三年/正平十三年(1358)四月三十日に敵対した足利尊氏が享年五十四歳で没し、鎌倉府草創期に憲顕が補佐した義詮が室町幕府二代将軍についいた。守護の任命権は将軍が有していたため貞治元年には憲顕は再度越後守護を叙任され、公的に復帰できた。

  

 足利基氏は、憲顕の鎌倉府の復帰を強く望み貞治二年/正平十八年(1363)三月二十四日に憲顕(民部大輔入道、法名道昌)に書状を書いている((「上杉家文書」)。「関東官領の事、京都より度々仰せられ候と雖(いえど)も、時儀難治の間、今に延引候、今時分子細有るべからず候、時日を廻らわさず参られるべく候、是非に就き相構々々異議に及ぶべからず候、且つ天下のため候の間此の如く申し候也、若し遅々候らわば、支え申す仁なとも出来すへく候與、此事多念願の事に候間、此時就願大慶候、委細の旨季源すべく候、謹言、(一部原漢文) 三月廿四日 基氏(花押) 民部大輔入道殿」。文章には「難治」難しいことがあり延引したがこの度問題がなくなったので天下のため速やかに帰参してほし子の事は基氏の大きな念願であると基氏は説いている。鎌倉府において法体の執権は存在せず、出家する際に役職を退くのが慣例である。畠山国清は尊氏死後に出家し、そのあと関東管領を続けた可能性は高いが、関東軍を率い上洛した際『園太暦』『愚管記』には国清の肩書は記されていない。上杉憲顕は法体のまま、また環俗して官僚に補任されたかは定かではないが、同年十一月二日将軍から義詮から関東への申沙汰が憲顕に充てられていることから基氏の望んだ関東管領に就いたと考えられる。

 

(写真:鎌倉二階堂 瑞泉寺)

 薩捶山体制は上杉憲顕が関東管領になったことで崩壊し、東国において東国武士はその地域の影響力を持つ実力者が守護として配され、安定を図ることを目的としていた。上杉憲顕が関東管領になったことで体制が崩壊し、鎌倉公方足利基氏を中心に東国武士が秩序を持った施政により構成されることを望んだと考えられ、それは基氏の養父であった足利直義の政治が影響をもたらしたとも考える。将軍義詮も幼少のころから憲顕を知り観応の擾乱で袂を分けたが、自身が将軍に就き幕府と鎌倉府の連絡役と調整役には憲顕が適任であることを感じていたため復権を認めたと考える。しかし、薩捶体制の崩壊を敏感に感じたのが薩捶山合戦で功績を得て越後・上野両国の守護に就いた下野国を本拠とする宇都宮氏綱の叔父にあたり越後の守護代芳賀禅可(高名)であった。禅可は、出家をしたため守護代としては子の高貞・高家が担っていたとされる。上杉憲顕の復権に伴い観応の擾乱で憲顕から没収し、受け取った領地を返付しなければならなかった。芳賀禅可は越後国内で数か月にわたり戦ったが敗退し、憲顕が関東管領就任のため鎌倉へ向かう途中に襲撃を試みようとするが、そのことを知った基氏は自ら大軍を率いて宇都宮に向かった。禅可は上野板鼻(群馬県安中氏板鼻)での襲撃に失敗し武蔵岩殿山・苦林野で基氏の追討を受け子息高家は討ち死にし敗退した。禅可は逐電し、高貞は宇都宮に逃げ、基氏はさらに追討し宇都宮に入る。氏綱は基氏の討伐を受け降伏し、上野国守護も解任されたとされる。『太平記』三十九巻芳賀兵衛入道の事によると宇都宮氏綱は即刻基氏の所に現れ「禅可のこの間の挙動、全く我同意したる事候はず(禅可の行動は、私は全く同意した覚えはない)」と述べたとされる。憲顕の復権を達した基氏はそれ以上氏綱の責任の追及はせず、禅可が宇都宮氏綱の責任を負う形で退くことになった。

 

(写真:鎌倉二階堂 瑞泉寺)

 貞治三年/正平十九年(1364)七月二十七日、世良田義正が基氏の勘気を蒙り、翌日追っ手を向けられた(『生田本鎌倉大日記』)が理由は定かではない。世良田氏は新田一族であり、義政は同じ新田一族の岩松正経の子であるが世良田氏に入ったものである。観応の擾乱期に直義派に属し、敗退後隠棲状態であったとされ、基氏の直義派の復権により岩松直国と共に基氏近臣を勤め、上総守護を獲得していた。八月二日には義政及び梶原景安誅伐のため基氏は南部馬之助に軍勢を催促(『後鑑』所収「万沢文書」)その権、義政は上野国如来道で自害したと伝えられている。義政誅伐の原因は公認の上総守護に就いた岩松直明とその同族である新田一族の世良田氏と岩田氏の確執が指摘され、櫻井彦氏の『南北朝内乱と東国』において、「その確執は、復権した上杉憲明の娘を妻としていた岩松直国の勝利と言う形で終結し、上総国の守護職も岩田氏に移動した。しかし、その後わずか数ヵ月で上杉朝房が任じられており、最終的には上杉氏の勢力拡大という結果をもたらした。また、足利譜代の梶原景康も誅殺されており、鎌倉府体制内における「親上杉氏」勢力の伸長の一過程と評される。基氏の勘気の原因は『系図纂要』所収系図の世良田義正が南朝方に通じたという注記は娘を新田義宗に嫁がしている義政の立場を踏まえれば十分考えられることである。」と述べられている。

 

(写真:ウィキペディアより夢窓疎石像)

 康安二年(1362)の春、基氏は鎌倉瑞泉寺一覧邸で義堂周信と花見をした。瑞泉寺は、嘉暦二年(1327)に夢窓疎石が創建し開山者とした臨済禅の寺院であり、山号寺号を錦屏山瑞泉寺と言う。後に足利基氏、満氏、持氏らの墓があり、鎌倉公方代々の菩提寺となっている(一般公開はされていない)。当時、塔頭も十を超え関東十刹を持ってかかわらしめたと記されている。第一位の格式を誇る寺院であり、背後の屏風のような広がる山の山頂にある偏界一覧邸は開山の翌年に建てられていた。義堂周信は義堂を道号、周信を法名であり、別号を空華道人と号し、正中二年閏一月十六日土佐国高岡で生まれ、十四歳で剃髪し台密を学ぶが後前週に改宗し夢窓疎石の門弟となった。延文三年/正平十三年(1358)足利基氏の招きで鎌倉に下向し康暦二年/天授(1380)まで滞在している。延文四年/正平十余年(1359)関東に下ってきた義堂は基氏の深い帰依を得る事になった。基氏にとって精神的支柱の人物であったとされる。当時二十三歳の基氏に指導者としての資質を見て、その実行を即した基氏奉慶の詩を読ませている。義堂の日記の妙本である「空華日用工夫略集」は宗教上の資料でありながら室町幕府・鎌倉府関係の貴重な根本史料として残されている。義堂の日記の妙本である「空華日用工夫略集」は宗教上の資料でありながら室町幕府・鎌倉府関係の貴重な根本史料として残されている。『空華集』貞治三年夏のじょうには鎌倉府が初めて「行宣政院(あんせんしんいん)」を設置し関東分国十ヶ国の禅教諸刹を持ってかかわらしめたと記されている。「行宣政院」は室町幕府における禅律方にあたる鎌倉府の機関であり、禅律方寺院の所領裁判や寺院規律を作成する機関であった。基氏が禅宗などの保護・優遇と統制に努めたとされる。

 

 そして、将軍義詮と基氏の母で、尊氏没後出家をしていが赤橋登子は貞治四年/正平二十年(1365)五月八日、没している。享年六十歳、死因は翌年から患った「悪瘡」とされる。登子が生涯七人の男女を産んだとされるが、この時は室町幕府将軍の義詮と鎌倉公方基氏の二人だけになっていた。この二人が尊氏・直義のような対立を起こさず逝く事が出来たのは登子にとって幸せだったと思う。同年六月九日に故登子に従一位が贈られている。そして、その二年後、貞治六年/正平二十二年(1367)に鎌倉公方足利基氏が没し享年二十八歳で嫡子氏満が鎌倉公方を継いでいる。墓所は鎌倉の瑞泉寺にある。基氏没後、幼くして鎌倉公方となった氏満を義堂周信が教育係を務め、さらに諸問題の解決に尽力し、公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えたとされる。帰京後、三代将軍足利義満の庇護のもと相国寺建立の進言、建仁寺住職、南禅寺住職を務めた。 ―続く