鎌倉散策 鎌倉公方 五、足利基氏の施政 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 貞和五年/正平四年(1349)に足利基氏は、兄義詮に変わり鎌倉府を機能させるため、十歳で下向した。執事(後関東管領)として高師冬、上杉憲顕が補佐している。元服前に鎌倉に来て、現在の鎌倉街道の明王院手前の虹橋近くの住宅地に入る所に鎌倉公方邸跡碑が存在し、そこで政務が行われたと考えられる。 本来元服後の武家の習慣として十五歳で判始(はんはじめ:初めて花押を据える儀式)が行われた。田辺久子氏『関東公方足利四代』に基氏は元服前に据えられた花押が『生田本鎌倉大日記』に残されていると記載されている。「世野原において、御旗を掲げられるにより、御元服以前御判を成さる、正・五所見あり、(原漢文)」田辺久子氏は正平五年/観応元年(1350)十二月京都の直義に呼応して上野国で兵をあげた上杉憲顕らの留守を狙って、憲顕討伐と称して基氏を擁し鎌倉を発した師冬のクーデターに関係があるかもしれないと考えられている。また、同年十二月二十八日の善波有胤(ぜんばありたね)着致状写し(「相州文書所収大住郡佐藤中務家文書」)の証判が写しであるが基氏の花押と認められている。善波有胤が着致を承認したもので、上杉憲顕が前年十二月二十九日上野国から駆け付け、基氏を擁した高師冬から基氏を奪還した。異例であり、十五歳までの花押に公的効力がないとされるが、師冬に勝利した上杉憲顕は、関東諸氏に着致証判や感情に基氏の花押の必要性を考えたのではないかとされる。公方としての公式な寄進状は憲顕奉書で出されている。同年、基氏自身が上野世良田(群馬県尾島町)に下向した際の世良田長楽時に寄進したもの等が残されている。

 

(写真:鎌倉金沢街道 浄明寺)

 足利尊氏と直義の薩捶山の合戦で尊氏が直義に勝ち直義が急去した後、文和元年/正平七年(1352)、二月基氏の元服と重なり上野で南朝の新田義興、義宗・脇屋義春が挙兵し鎌倉は一時新田勢に攻略されたが、武蔵の合戦・鎌倉合戦・笛吹峠合戦を経て尊氏・基氏は鎌倉の奪還に成功した。観応の擾乱は諸国に展開する南朝勢力を活発化させる要因になっている。文和二年/正平八年七月、基氏が入間川に陣を張り、貞治元年/正平十七年(1362)までの約九年間をここで過ごした。この意図は河越直茂を牽制のため、越後・信濃を中心とした新田氏、上杉氏、上野の白旗一揆などの対応と考えられており、ここが交通と戦略上の要であった事が窺える。この入間川での尊氏は文和二年/正平八年(1353)七月に京都で苦戦する義詮の加勢するため再び上洛の途に就いた。鎌倉府において、同年三月、まだ元服後の基氏に対し、父尊氏は上杉氏を登用しない執事体制がとられ、最も信頼できる足利一門の畠山国清を関東管領に登用し、実質的な東国支配の薩捶山体制を構築している。尊氏が京に戻り、鎌倉府においては、本来将軍が武士に土地あるいは土地の支配権に関する権利を給与する知行地の充行権を関東分国内に限り基氏が行ったことが認められている(初見として文和三年六月六日『諸氏家蔵文書所収山角氏所蔵文書』)。この権限の給付により基氏と関東武士との間の主従関係が構築し、足利氏の関東の支配を確実に強固するためだあったと考えられる。

 

(写真:北鎌倉長寿寺 足利尊氏の遺髪が治められた墓)

 延文三年/正平十三年(1358)四月三十日に足利尊氏が享年五十四歳で没している。関東管領に登用された畠山国清は妹を基氏の室とさせ、十月十日に、新田義興を武蔵国矢口で誅殺し鎌倉府での権勢を強めていく。同年十二月十八日嫡子義詮が征夷大将軍の宣下を叙任され室町幕府二代将軍として就いた。正平十四年/延文四年(1359)、京都周辺においても南朝方の攻勢があり、将軍義詮が東国武士の派兵を出すよう書状が発行され、二月七日、基氏は関東の諸氏に対して参洛して忠節することを命じている。波多野氏(「萩藩閥悦録」)・別符氏(「別符文書」)・高麗使氏(「町田文書」)・金子文書(「萩藩閥悦録」)等に充てた御教書が伝わる(田辺久子氏『関東公方足利四代』引用)。これら御教書の発行は畠山国清(畠山道誓禅門)『太平記』(三十四巻)において畠山道誓禅門上洛の事に「思いのほかに世の中の閑かなるにつれても、両雄は必ず争うと云う習ひなれば、鎌倉の左馬守と宰相中将との御中、いかさま不快なる事い出で来ぬと、人皆危うく思えり」と国清が主導したとされる。畠山国清は自身が主導し、東国の軍勢を自身が伴わせることにより東国での権勢をより高め、幕府側においても自身の地位を誇張さえる目的もあったと考える。元弘の乱以以降、畿内の泉・紀伊・河内の国の守護を有しており、この幕府の南朝方掃討の参加により本来の拠点であった畿内周辺の再建を目論んでいたのかもしれないと櫻井彦氏『南北朝内乱と東国』で記されている。そして同年十月八日に国清は東国軍の大将として上洛し、「鎌倉佐助稲荷文書」所収『後鏡(のちかがみ)』を見ると、基氏は十二月十一日に凶徒退治等を鎌倉稲荷社に命じた。『太平記』三十四巻、和田楠木軍評定の事で「畠山入道、東国八ヶ国の勢を卒して二十万騎、すでに京都について候なる。」と記されている『太平記』の数字的記載は的確なものではないが、相当数の軍勢が伴われたと考えられる。

 

 翌年の正平十五年/延文五年(1360)には『太平記』では二十万騎の東国軍の戦功も多くあり、四月畠山義深らが四条隆俊の籠る奇異の竜門寺城を攻め、芳賀公頼の奮戦で落城させている。閏四月二十九日、平井市場が今川範氏・佐々木崇永らの攻撃で落ちている。しかし、長期の遠征に対し、兵糧と疲弊が重なり、随意に帰国する武士が出始めた。国清は即時鎌倉に戻り、無断帰国した武士の所領を没収したため、この圧政に対し関東武士の間で不満が募り、千余人が制約して国清の下では成敗に従わないと基氏に訴えた。国清はこの訴状に対し聞き入れることなく、ますます厳しい処分を下し、そのため鎌倉府においても孤立して行った。基氏は国清裏面の要求に対し二木義長追討の動きに参加したことと東国武士の所領没収についての申し開きするように命じ、時間がかかるようであれば追討軍を派遣するという基氏の強い姿勢を現している。国清は康安元年/正平十六年(1361)十一月二十六日、鎌倉を出奔し、自身守護職を務める伊豆に立て籠もった。基氏は波多野隆道・岩松直国らに追討の命を出し、翌年二月二十一日に伊豆神余(かなまり)城を攻撃し国清は抵抗をつづけたが九月十日に降伏した(『太平記』巻三十八)。処罰をおそれ逃亡した国清は、その後奈良周辺で窮死したという。

  
(写真:鎌倉金沢街道 浄明寺 足利直義の墓)

 基氏は入間川御陣を家臣に任せ九年ぶりに鎌倉に入った。貞治元年/正平十七年(1362)十二月二十七日鶴岡八幡宮とその周辺に八か条の禁制を出している。その中の一つに「太刀を持った輩が社内を出入りする事」「供僧や社司・社宮の住所に軍勢が寄宿する事』などを禁じている。足利直儀の猶子として育てられた基氏が道理に基づいた施政を行った一つでる。また、幕府は畠山国清に変わり関東執事を高師有とした。師有は尊氏に最も信頼されていた家臣であったが師有の父師秋が足利直義の側近上杉氏の女を妻としていたため直義派に属していた。基氏は師秋の弟で同じく直義派であった師業に対し国清が没収した所領を還付し、国清の統治を否定しようとする意図が見える。これは国清と対立した勢力を復活させることでもあり、それは言うまでもなく旧直義派の人々であった。 -続く