鎌倉散策 鎌倉公方 四、初代鎌倉公方足利基氏 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 正平四年/貞和五年(1349)九月に足利基氏は足利尊氏と高師直の対立により、兄の鎌倉公方であった義詮が入洛することで、鎌倉公方に就任し下向した。基氏は興国元年/暦応三年(1340)三月五日に生まれ、幼名を光王(亀王)と言う。兄義詮と十歳下で、十歳の時に鎌倉公方に就いたことになる。「賢俊僧正日記」暦応五年(1342)条の二月の記事に「鎌倉若君 若君四辰戌 三若君三子牛 姫君 一、姫君丑未」とあり、鎌倉若君は義詮が当時十三歳、若君正は聖王で四歳(「常楽記」、「師守記」において康永四年八月一日に「将軍御息聖王が早世したことを記している)三若君は基氏で三歳であった。二人いる姫君のうち一人は早世し、もう一人は六歳であったと考えられる。

足利系図の中には、基氏が叔父の直義の「猶子(ゆうし:養子よりも簡略化された関係)」と記されるものが多い。また、尊氏の非認知子・直冬が直義の養子とされる。基氏の猶子となった理由は不明であるが、直義には貞和三年(1348)まで子供がいなかったようで、正室・渋川定頼の娘が四十二歳で、初産で男子を出産しているが観応二年(1351)に五歳で早世した。そのため尊氏は子がなかった直義に亀王(基氏)を生後二・三歳で猶子に出したと考えられる。

 

 正平四年/貞和五年(1349)に基氏は、兄義詮に変わり鎌倉府を機能させるため、十歳で下向した。この室町期に鎌倉公方(関東公方)が存在し、室町将軍の代理として東国十ヶ国を治めてゆく。基氏以降、基氏の嫡子により世襲していくことになるが、その後の鎌倉公方は、室町幕府将軍と対立姿勢を示したのは大きな特徴である。足利基氏が尊氏の子として初代鎌倉公方として位置づけられ、子息が世襲していった点が大きな原因がある。しかし、公方を補佐する執事(後は関東管領と呼称される)は室町幕府将軍によって決められた。これも鎌倉公方を補佐する執事が幕府側と言う点において公方の施政に対し矛盾が生じることも多くなった。そして、執事が関東管領として呼称されるようになるとその一族が大きな勢力になり分散していくことにより新たな対立を生じだした複雑な時代となってゆく。

 

 足利義詮が鎌倉公方であった際に補佐をする執事は斯波(しば)家長と高重茂(こうしげもち)であったが『鎌倉大日記』によると中先代の乱で、鎌倉攻めの際に家長は戦死したとされる。その後「建武式目」制定期には出自として上杉憲顕と高師冬であった。この人事において、保守の上杉対革新の高師冬対立を生じさせ、足利直義と高師直の対立へと進み観応の擾乱に至った。正平五年/観応元年(1350)十月十六日に足利直冬(尊氏の非認知子で足利直義の養子)が九州で挙兵した知らせが入ると尊氏は師直を率い同二十八日に九州へと下る。直義は尊氏・師直が京都を出る前日に秘かに京都を出て大和国へ赴き高師直・師泰の謀伐を呼びかけ、兵をあげる。鎌倉では、これに呼応する上杉憲顕が両国の上野で兵をあげ鎌倉に向かった。高師冬は基氏を擁し憲顕を討つため鎌倉を出立したが、毛利荘湯山(現厚木市)で憲顕勢力に基氏を奪われている。玉を失った師冬は正平六年/観応二年(1351)一月、敗死した。

 

 同年正月七日には尊氏軍は、摂津国瀬川宿にもどり、直義も京都南部の石清水八幡宮が所在する八幡には入った。同十五日には近江国から桃井直常が入京し、尊氏派と合戦が始まる。義詮は、崇光天皇以下の北朝皇族を置き去り尊氏のもとへと逃亡した。その後、尊氏勢は二月に入ると京都を目指すが、直義勢は二月十七日には尊氏を摂津国打出浜まで追い込み合戦に勝利している。二十日に、尊氏は直義と講和せざるを得ず、寵童饗庭氏直(尊氏側近、饗庭明鶴丸:あいばみょうつるまる)を立てて和議を図り、その条件として表向きは、高師直・師泰の出家(除名とされているが)であったが、実際には直氏には直義に師直の殺害を許可する旨を伝えたとされ、和議は成立する。そして二十六日、京都への護送中の高師直は、摂津武庫川(現兵庫県西宮市と伊丹市の境)で上杉能憲により一族共に誅殺され、能憲は養父重能(高師直の尊氏邸包囲した際、和議により配流とされた重能を師直は殺害した)の仇を討ち、直義は長年の政敵を排すことが出来た。

 

 上杉氏は本来公家の出身で、藤原氏勧修寺流の庶流で朝廷の侍臣であった。上杉氏は藤原氏勧修寺高藤流の朱里大夫重房が丹波国上杉荘を所領としたことに始まる一族である。保元の乱では重房の祖父・盛憲は藤原頼長の近侍であり佐渡に流罪。承久の乱では重房の父清房は後鳥羽天皇に従事していたため後鳥羽と共に隠岐へ流罪に同行。上杉氏は天皇家の政争に巻き込まれ翻弄され不遇な一族であっ杉重房も同様に実務能力は評価されており、不遇を断ち切る為に建長四年(1252)鎌倉幕府六代将軍となった宗尊親王に供奉して鎌倉に下った。その後、丹波何鹿群(いかるがぐん)上杉荘(京都府綾部市)を与えられ、上杉氏を称し武家となる。憲顕はその重房から頼重―憲房―憲顕と続く四代目である。鎌倉幕府時において北条家に次ぐ足利氏と婚姻関係を結び勢力を拡大していった。尊氏・直義兄弟の母は上杉頼重の娘清子であり、従弟関係にあたる。上杉憲顕の父憲房は鎌倉末期から建武新政期にかけて、尊氏に忠節をつくした。元弘三年(1333)の尊氏が鎌倉幕府に対し反旗を挙げ挙兵した事は憲房の薦めによるものであったと『難太平記』に記されている。また、足利直義と上杉憲顕とは従弟で同年の生まれの為、建武の新政期から直義側におり、政治姿勢が似ていたとされ、心からの信頼関係が生まれていた。しかし、尊氏と直義の対立で激化し、鎌倉では、直義の猶子であった鎌倉公方の基氏(当時十二歳)が尊氏と直義の和解を斡旋するが、直義が拒否したため基氏は伊豆に隠遁してしまっている。まだ若い基氏と側近の斡旋であったと思われるが、和解を求める時期と両者の対立はそこまで激化していた。正平六年/観応二年(1351)十二月二十七日に薩捶山の合戦で直義方の石塔義房・頼房親子が尊氏勢に攻め入り伊達景宗と戦ったが結果、尊氏方が勝利した。伊豆国府にいた直義に向かい箱根・竹之下に陣を張る。勢いに乗る尊氏方は上杉勢と交戦するが、上杉憲顕、長尾景康は信濃国に落ちて行った。正平七年/観応三年(1352)一月五日には鎌倉に追い込まれた直義は尊氏と講和を行い降伏した。その後、直義は浄妙寺の横にあったとされる円福寺(廃寺となる)に幽閉され二月二十六日に急死している。

 

(写真:鎌倉亀ヶ谷長寿院)

 文和元年(1352)二月、基氏の元服と重なり上野で南朝の新田義興、義宗・脇屋義春が挙兵し鎌倉は一時新田勢に攻略されたが、武蔵の合戦・鎌倉合戦・笛吹峠合戦を経て尊氏。基氏は鎌倉の奪還に成功した。観応の擾乱は諸国に展開する南朝勢力を活発化させる要因になっている。そして、尊氏は文和二年(1353)七月に京都で苦戦する義詮の加勢するため再び上洛の途に就いた。室町幕府はまだまだ南朝方との抗争が続き、『鎌倉九代後記』によれば基氏はおよそ六年の間、南朝方との戦闘で鎌倉を離れ奥州との交通・戦略的要衝である入間川に在陣していたため「入間川殿」と呼称された。『烟田(かまた)文書』に所収の文和二年(1353)九月『烟田時幹着条』(『烟田氏史料』五十三号)には武蔵下向の基氏の警護に当たった常陸の烟田一族の様子が語られている。入間川御陣は弘安二年(1362)までの約十年間に及んだ。基氏二十三歳で、その抗争を窺うことができる。 ―続く

 

(写真:鎌倉亀ヶ谷長寿院)