鎌倉散策 岩船地蔵尊の大姫と乙姫、五 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 岩船地蔵堂を見て何故この地に堂が立てられたかは前章で「中原親能の亀ヶ谷堂の傍らに葬った」とされることで伝承により江戸期に、その近くの場所に建立されたのではないかと結論付けた。鎌倉を歩いていると色々なものに巡り合い、知り、そして想像して夢を見る。鎌倉に来て二年たつが、まだガイドブックと地図を片手に歩く。ふと、地図を角度を変え見ていると思いもつかないことが見えてきた。これは、恥ずかしくて記載することを一年ほど考えたあげくに記載するが、何の根拠もない。しかし、大三輪龍彦氏が、「岩船地蔵の前には小さな川が流れており、それにかけられた石橋が、昔から言い伝えがあり「縁切橋」と言う。その言い伝えは嫁に来た時、その上の橋の上に何かを敷いて渡らないと縁が切れるということ伝承されるが、本来俗世の間と全く遮断された空間がそこにあって、娑婆と縁が切れる」と言う事を記述され、何故か空間と言う事を考えながら。お粗末であるが記述させていただく。

 

鎌倉には八雲神社が、現在四社が存在して、八雲神社(大町)、八雲神社(常盤)、八雲神社(山ノ内)、八雲神社(西御門)である。八雲神社は祇園信仰を示す社殿であり、祇園信仰は祭神を牛頭天王(ぐずてんのう:素戔嗚命)、素戔嗚命、櫛稲田姫命とする祇園信仰の神社を指す。また、天王社として呼称されてもいた。有名な本社として八坂神社(京都府があり)があり、ほかにも祇園信仰の神社の本社は他にもあり、広峰神社(兵庫県)や須賀神社(島根県)などがある。鎌倉にある八雲神社は大町では京都の祇園社を勧請、山ノ内は祇園大神を勧請されている。

 

(写真:山之内 八雲神社)

 八雲神社(大町)は、社伝によると永保年間(1081~84)源義光(新羅三郎)が兄八幡太郎義家の奥州攻め(後三年の役)の助勢に向かうかう途中、鎌倉に入ると疫病がはやっており、それを防ぐため、京都の祇園社を勧請したという。また後の応永年間、義光の子孫佐竹氏の屋敷に祀られていた霊祠(レイシ)を合祀した(1394~84ころ)。そのため、当時、佐竹天王社、または祇園天王社と呼ばれたようである。佐竹氏は代々、源氏、足利氏、豊臣秀吉にも仕え、「天下六大名」の一つに数えられた。江戸時代においても、代々の将軍により朱印を賜った。明治維新で社号を鎌倉祇園社(祇園天王社)から八雲神社に改称された。

 
(写真:常盤 八雲神社)

 八雲神社(常盤)は、常盤はかって天王社と呼ばれているため祇園信仰の社殿であると考えられる。

常盤にある八雲神社は社殿により、治承年間(1177~1181)梶原景時がこの地に除災を祈願して建立された。その後、常盤の鎮守社になり、慶長年間(1596~1615)この村の矢沢与左衛門と言う人物が熊野神社を勧請し、八雲神社に合祀した。明治時代に入り、御嶽神社、諏訪神社が合祀された。かつて天王社と称され、伝説として伝えられている起源がある。 

 

(写真:山之内 八雲神社例大祭)

 八雲神社(山ノ内)は山ノ内の鎮守社で、鎌倉時代に創建されたらしい。「模風土記」によると元仁元年(1224)に鎌倉で疫病が流行し、疫病を収める為、各地で祈願祭が行われた。その地の村人が祇園八坂の神霊を勧請し、村の安寧を祈ったのが始まりと言われている。古くは牛頭天王社とも称し、素戔嗚命を祭神とする。牛頭天王は素戔嗚命を指す。

 

(写真:西御門 八雲神社)

 八雲神社(西御門)は旧村社に列格され、西御門の鎮守社ある。縁起は定かでなく、『相模風土記』にある「字大天の天王社」がこの社の前身と言われる。神殿は天保三年(1832)五月建立と「大正七年明細書」に記載がある。祭神は素戔嗚命である。

八雲神社は素戔嗚尊を祭神として、日本全国で八坂神社の社数は全国で一番多い。日本の神話を見ても伊勢信仰のような神話的物語ではなく、土着型の神話で『記紀』には取り上げられない歴史が西日本で窺うことができる。

 今現在、この鎌倉の八雲神社の四社を地図上に結び付ける線を記すと交差する地点が岩船地蔵の近で交差する。非常に興味が湧き、岩船地蔵に纏わるものではないか。また、中原親能の亀ヶ谷堂の傍らに葬った場所、あるいは墳墓堂か関わる場所ではないかと想像する。大三輪龍彦氏は伝承として「岩船地蔵の前には小さな川が流れておりそれにかけられた石橋が、昔から言い伝えがあり「縁切橋」と言う。…本来俗世の間と全く遮断された空間がそこにあって、娑婆と縁が切れると言う」事を記述されている。京都にも六道の辻にある六道珍皇寺が平安時代より、あの世とこの世の通り道として伝えられている。 

 

 何か秘められた特別な場所ではないかと考えてしまうが、色々調べていくと荏柄天神者の近くの金沢街道沿いだと思われる地に八雲神社が存在したことを荏柄天神社社伝により窺うことができるため、それを入れると地図上に交差する点は全く違ったところになる。また、鎌倉の山崎にも山崎八雲神社があったという伝承もある。残念だが、今のはやりのパワースポット的な場所ではない。疑問を検証と考察を繰り返し、歴史を見た場合に結論が出てしまう。それが科学でもあり、より興味が湧くのである。 ―完