鎌倉散策 岩船地蔵尊の大姫と乙姫、四 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 三幡(さんまん)は文治元年(1186)六月三十日に源頼朝と北条政子との間い次女として生まれる。通説では大姫と九歳違いで、保立道久氏の安元二年(1175)三月大姫誕生説では十一歳違いの姉妹になる。通称は乙姫で、従来、姉妹のうちで妹の姫の事を言う。姉の大姫は『吾妻鏡』『北条九代記』『承久記』などにおいて一切名は出てこないが、乙姫は三幡で記載されている。しかし『吾妻鏡』では六月三十日の記載はない。

 

 『吾妻鏡』は、建久七年から正治元年二月まで欠陥しているので『北条九代記』『愚管抄』などで見ると。頼朝は大姫を後鳥羽天皇に入内させる考えがあったが、九条兼実『玉葉』の建久二年(1191)四月五日条に「或る人伝はく、頼朝卿の女子、来る十月入内すべしと云々」とあるが、聞き伝えられたことを兼実は日記に記している。頼朝は大姫の病状を見ると消極的であったと言わざるを得ない。大姫が死去すると三幡を次なる候補とした。三幡は女御(にょうご:天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した)の証をあたえられ、正式の入内を待つばかりとなりとなっていた。頼朝は朝廷の政治に対し意見を具申するために上洛を予定して三幡を同行させるつもりであったとされる。『愚管抄』において大姫の死と次の娘(乙姫)を連れて上京したいと、一条能保の子高能に漏らしたという。しかし建久十年(1199)一月十三日に頼朝が死去したため、中止になっている。 

 

 『吾妻鏡』では正治元年三月五日条から、三幡の病気と病状について記されている。三幡は先頃より、高熱を出し病となる。危急の状態で、母政子は諸社・諸寺に祈願誦経をさせる。十二日には三幡は日を追って憔悴していき、療養のため名医の誉れ高い今日の針博士丹羽時長を招こうとするが、頻りに固辞したために院に奏上するよう在京の御家人に使いが出された。五月七日、今日より医師の時長が鎌倉に到着する。度々固辞するが院宣により下ってきた。時長は三幡を治療するため畠山重忠の南御門邸に移り住んだ。同八日、治療を受ける。朱砂丸(硫化水銀からなる鉱物の漢方薬)を三幡に献上し、砂金二十両の禄を賜った。十三日、御家人たちが日別に時長を饗応することが決められ。二十九日、三幡はわずかに食事をとり、周囲を喜ばせた。一時は持ち直したものの、六月十二日には目の上が腫れる異様な様子となり、十四日、三幡は再び病状が悪化して床に臥せる時長は特によくない兆候であると驚きいて申した。今においては望みがなく、人力に及ぶところではないと言って二十六日帰洛した。

 

 正治元年(1199)六月三十日、午の刻に姫君三幡橋は死去した。御年十四歳。頼朝の死から五か月半後の事であった。尼御台所(政子)の嘆き、諸人の悲観は記しれきれない。乳母夫である掃部頭(かもんのかみ)中原(藤原)親能が出家を遂げ、定豪法橋が戒師となった。今夜、戌の刻に姫君を親能の亀ヶ谷堂の傍らに葬った、江間殿(北条義時)・兵庫の守(中原広元)・小山左衛門慰(朝政)・三浦介(義澄)・結城七郎(朝光)・八田右衛門慰(知家)・畠山次郎(重忠)・足利左衛門慰(遠元)・梶原平左(景時)宇都宮弥三郎(頼綱)[最末(に供奉:ぐふ)。素服(清浄な白地の服)を着なかった]・佐々木小三郎(盛季)・藤民部丞(二階堂行光)ら供奉した。それぞれ素服であったという。

約一月後に病没する。 七月六日条、今日、姫君(三幡)の御仏事が墳墓堂で修された。尼御台所(政子)が渡られた。同氏は宰相阿闍梨尊暁と言う。

 

(写真:亀ヶ谷 薬王寺)

 三幡・乙姫には毒殺説もある。東下することを拒んだ丹羽時長を院宣としながら下向させ、朱砂丸を投与し毒を含ませたのではないかと。三幡・乙姫が衰退していたため、毒の効き目が早く、長時が慌てて鎌倉を去る。将軍家から相当の物を頂き送人二十人、国雑色二人名ならび平氏を賜ったが、鎌倉に来た守宮令・中原親能の下向を待って鎌倉に留まって、一緒に帰っている。後鳥羽天皇に入内さることを拒んだ京の公卿九条兼実、あるいは丹後の局(高階栄子)、または、朝廷との融和を拒んだ鎌倉武士であったかもしれないと。

 三幡・乙姫の墳墓堂は、どこにあるのかと言うと先述した通り、「親能の亀ヶ谷堂の傍らに葬った」「姫君(三幡)の御仏事が墳墓堂で修された」となっている。大三輪龍彦氏の『武士の娘の生涯・頼朝の法華堂と乙姫墳墓堂』で、「かつて岩船地蔵と浄光明寺の間には、「大友屋敷」と呼ばれていました。江戸時代の地誌等に、この「大友屋敷」は、かつて中原親能の屋敷があった場所であると言う事が書かれています。」当時の亀ヶ谷は今よりも広範囲であったと考えられるが、その屋敷傍に葬ったことで墳墓堂として岩船地蔵堂が考えられる。木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女の守本尊也」との記述があるが、「頼朝公御息女」と記されているが大姫の事は一切かかれていない。大姫も乙姫も「御息女」である。

 

 近年岩船地蔵が綺麗に立て替えられ、江戸時代に作られ、木造の地蔵で縁の下に立ってあった。建て替え時に残念であるが地蔵の首から上が崩壊した。以前首から首が前に傾いていたため鉄の心を入れた結果腐り膨張したためと言われる。現在樹脂で形成修理中との事である。残された首から下の衣の線を見ると室町期の物と推定され、大姫の守り地蔵と乙姫の墳墓堂が岩船地蔵堂と考えるのは矛盾が生じる。「亀谷堂の傍に埋葬された」とされるからである。その後、大姫、乙姫の伝承により江戸期に現在の岩船地蔵堂が建立され、源頼朝の長女大姫の守り地蔵が安置されたと考えられる。大三輪龍彦氏は岩船地蔵の前には小さな川が流れておりそれにかけられた石橋が、昔から言い伝えがあり「縁切橋」と言う。その言い伝えは嫁に来た時、その上の橋の上に何かを敷いて渡らないと縁が切れると伝承されるが、、あの世とこの世の通り道として伝えられている。 ―続く