鎌倉散策 岩船地蔵尊の大姫と乙姫、二                        | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 文治二年(1186)に入り、『吾妻鏡』では、この大姫が源義経の妾であった静御前と出会っていることが記述されている。保立道久氏の大姫誕生説を安元二年(1175)三月に換算すると大姫は十二歳になる。ここで大姫の心境をうかがい知ることができるので経過を追ってみると、文治元年十一月十七日に静御前は義経と吉野で別れ京に戻る途中に吉野執行の山僧に捕らえられ北条時政に引き渡された。『吾妻鏡』文治二年三月一日条に「今日、予州(源義経)の妾の静が、(頼朝の)命により京都から鎌倉に到着した。北条殿(時政)から送り進められてきたもので、母の磯禅師をともなっていた。そこで主計允(かずえのじょう:藤原行政)が手配して安達新三郎(清経)の家を指定して招き入れたという」。六日の日には、予州(源義経)の事を尋問されており、二十二日条には「静について、詳しい事情を尋問されたが、予州(源義経)の居場所は知らないと言い張ったままである。今は義経の子を身籠もっており、産後に(京に)帰るようにとの指示があったという」。

 

 四月八日条では、二品(にほん:源頼朝)と御台所(北条政子)が鶴岡八幡宮に参詣された。そのついでに、静を回廊に召し出された。これは舞曲を演じさせるためである。この事を、前に命じた時には、病気と言う理由で参上しなかった。わが身の至らなさについては致し方がないが、予州(源義経)の妾としてすぐにも目立つ場に出ることは大変な恥辱であると、日頃から内々に渋っていたけれども、「かの者はすでに天下の名人です。たまたま(鎌倉に)来ましたが帰洛

も近くなりました。その芸を見ないのは残念です。」と政子が頻りに(頼朝に)進められたので召されたのである。『ひとえに八幡大菩薩のお心にかなうようにせよ。』と命じられた。(静は)「最近はただ別れを悲しむ気持ちのみ強く、とても舞曲は演じられません。」とその場に臨んでもなお固辞した。しかし(頼朝の)再三の御命令により、やむなく白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発した。左衛門慰(工藤)祐経が鼓を打った。…畠山二郎重忠が銅拍子を担当した。静がまず歌いだして言った。

 よし野山 みねのしら雪 ふみ分けて いりにし人の あとぞこひしき (吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとがこいしい)

次に別の曲を歌った後、また和歌を歌って行った。

 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔の今に なすよしもがな (倭文(しず)の布を織る麻糸を丸く巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)

 

 まことにこれは八幡宮一帯が壮観なものとなり、梁の塵さえも動かすかと思われ、上下みな感じ入ったところ、頼朝が仰った。「八幡宮の神前で芸を披露するときは、当然関東の平安長久を祝うべきなのに、聞いているのを憚らず、反逆者の義経を慕い、別れの曲を歌うとは怪しからん」。政子がこれを聞いて申された。「君(頼朝)が流人として伊豆にいらっしゃった頃、私と契りを交わしましたが、北条殿(時政)は時の権力を恐れ、(私を)密かに閉じ込められました。しかしなお君を慕って暗夜に迷い大雨を凌いで、君の所にたどり着きました。また、石橋山の戦場におい出になった時は一人伊豆山に留まり、君の生死もわからず日夜魂も消えうるような気持でした。その愁いの気持ちを考えると、今の静の心と同じです。予州(義経)との長年の深い関係を忘れ、恋を慕わないようならば、貞女の姿ではありません。外に現れる風情に心を寄せ、中に動く気持ちを許すのが、誠の幽玄と言うべきものでしょう。まげてお褒めください」。そこで(頼朝の)御憤りも止んだという。しばらくして、卯花重(うのはながさね:表は白で裏は青の重ね装束)の御衣を簾(すし)の外に押し出し、褒美として与えられたという。この時、静は義経の子を宿しており、頼朝は女子なら助けるが男子なら殺すと命じている。

 

 五月二十七日条には、夜になって、静が大姫君の御命令により南御堂(長勝寿院)に参り芸を披露して褒美をいただいた。これは、このところ寺に御籠りになっていて、明日は十四日の期限が満ちて退出されるため、このようなことを行ったという。この参篭は病気回復祈願とされている。 閏七月二十九日、静は義経の子を産んだ安達清経が赤子を受け取ろうとするが静は泣き叫び離さなかった。母の磯禅師が赤子を取り上げて清経に渡し赤子は由比ヶ浜に沈められた。『吾妻鏡』では、このことを御台所(政子)がお嘆きになり、(頼朝を)宥め申し上げたが叶わなかったという。そして、九月十六日条に静と磯禅師は京に返された。憐れんだ政子と大姫が重宝を持たせたという。静のその後の消息は不明である。『吾妻鏡』を読むと記述はされていないが、大姫と静御前には、愛する人への思いと言う共通認識があったと思われる。いずれ父頼朝に殺害される義経と義高が重なり静御前を憐れんだと考えられる。通説では幼女と少女の間十歳で保立道久氏の説では、当時からすれば少女と女性の間十 二歳であり、義高への愛情を求めることに何ら問題はない年齢であると考える。

  

(写真:勝長寿院跡)

保立道久氏の大姫誕生説を安元二年(1175)三月に換算すると大姫は十二歳になった。

 頼朝と政子は大姫の病気を癒すため、各寺院に大姫を伴い参詣していた。文治三年(1187)二月二十三日条には、「大姫公の御願いにより相模国内の寺党で読経が修せられる。藤判官代邦通・川谷七朗政頼らがこのことを奉行した。大姫は岩殿観音堂に参詣されたという」この岩殿観音堂は神奈川県逗子市久木に所在する岩殿寺の事であり、「読経が修せられる」という記述は義高の供養と考える。「大姫公の御願いにより」と言う曖昧で目的を記さない表記により記述された。 ―続く

 

(写真:勝長寿院跡)