鎌倉散策 岩船地蔵尊の大姫と乙姫、一 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

  

(写真:鶴岡八幡宮)

 源頼朝と北条政子の関係が始まるのは、従来治承元年(1177)年ごろと言われてきた。保立道久氏は真名本『曽我物語』参観の冒頭の解釈に 誤りがあるとしている。従来、源頼朝が北条政子との関係を持ち始めた時期と解釈されて来た。同書記載の安元二年(1175)三月という年次は頼朝と政子が関係を持ち大姫が誕生した時期であると指摘している。そのため頼朝と政子の関係は安元元年の初夏には関係を持ち始めていたことになり、伊藤祐親が京から警護の謹仕から戻る直前としている。安元元年九月の頃、伊藤祐親が頼朝と娘との間に千鶴丸三歳を殺害し頼朝おも殺害しようとした事は、平家との関係を憚ったのではなく、源家の地を継ぐ頼朝を庇護し、娘との関係も認めており、その厚遇に反し、北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「後妻打ち:うわなりうち」であったと事で殺害をしたと提唱した。頼朝と政子の間には二女・二男が生まれている。定説で追ってみると、

・大姫は治承二年(1178)、長女として生まれ、建久八年(1197)七月十四日死去。享年二十歳。

・頼家は寿永元年(1182)八月十二日に長男として生まれ、二代鎌倉幕府将軍に就くが比企の乱後、北条氏に伊豆に幽閉され元久元年(1204)七月十八日、北条義時は以下により殺害される。享年二十三歳。

・三幡は(三万)文治元年(1186)六月三十日次女として生まれ。通称を乙姫で、正治元年(1199)六月三十日に死去。享年十四歳。

・実朝は建久三年(1192)八月八日次男として生まれ、健保七年(1219)一月二十七日、頼家の子・公暁により暗殺享年二十九歳。

また、頼朝には常陸入道年債の娘・大進局との間に貞曉(じょうぎょう/ていぎょう)文治二年(1186)二月二十六日に生まれ、京都仁和寺にて七歳で出家、後には高野山に上る。寛喜三年(1231)、高野山で四十六歳で死去(自害説もある)した。頼朝、政子の間に生まれた子は、すべて若年で悲壮な死を遂げる。

 

(写真:亀ヶ谷)

 亀ヶ谷辻に建つ岩船地蔵堂は、古くから頼朝の娘、大姫の守り本尊がここに安置されている地蔵菩薩であると言われており、その台座が船形をしていることから岩船地蔵堂と名がついた。そして、大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられる。木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女の守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が示されていた。『吾妻鏡』は建久七年(1195)から正治元年(1199)二月まで欠落している。『北条九代記』には、許嫁(いいなずけ)との仲を裂かれた姫が傷心の内に亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原などの多くの人々がこの谷に野辺送り(故人のご遺体を火葬場または埋葬地まで運び送ること))したことが記されている。しかし、なぜ、この亀ヶ谷の岩船地蔵堂が大姫の供養する地蔵堂と言い伝えられてきたのかは定かではない。その理由をずっと調べている。

 

(写真:亀ヶ谷辻岩船地蔵堂)

 岩船地蔵堂の前には、「このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養した。心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。 平成十三年十一月吉日  海蔵寺」

 大姫は、源頼朝と北条正子の間にできた初めての子である。生年は治承二年(1178)頃と言われているが、明記する文献はない。大姫と義高の関係を見ると定説では、大姫があまりにも幼すぎ、保立道久氏の大姫誕生説を安元二年(1175)三月と定めてみると大姫の心情と内容が理解できる。大姫と言う名は、貴人の長女への尊称であり、実際には別の名があったのかもしれない。寿永二年(1183)の年の春に木曽義仲は、権力範囲の確認と単独での上洛をおこなわないとして、いったん頼朝と和解する。大姫の婿と言う名目であったが、長男の源義高を鎌倉に人質として差し出した。義高は1173年生まれの十一歳で、大姫は1175年生まれ九歳歳と三歳違いの歳の差であった。木曽義仲は突如七月に倶利伽羅峠で平家軍を破り、先に京に入った。木曽義仲(頼朝の従弟)は、十分な兵糧を持たず京都にて略奪を多く行い、当時京都周辺は大きな飢饉であり、その略奪は、民衆及び公卿・朝廷までもが反感を買った。そして、公卿文化に対し無知であったため後白河法皇から嫌われ、頼朝に義仲追討の宣旨が下される。寿永三年(1184)一月二十日、木曽義仲が源義経(頼朝の異母弟で木曽義仲討伐軍の総大将))に敗れ敗死すると、頼朝は義仲の嫡子、義高の殺害を企てた。それを察した義高は鎌倉から逃亡する。『吾妻鏡』元暦元年(1184)四月二十一日条にこの事件の記述がある。大姫の女房が殺害の件を聞き大姫に申し告げた。義高は計略をめぐらし、この日の暁に鎌倉を脱出した。女装を装わせて女房に囲まれ逃したともいわれている。海野小太郎が義高と同年であったため義高に扮し時間を稼いだが夜になり事が露見した。頼朝は追っ手を差し向け、「大姫は心を乱され魂も消えんばかりであった」と記されている。通説の大姫の生まれが治承元年(1177)年では七歳、安元二年(1175)では九歳で逃亡の手助けは女房たちが行ったと思われるが、「大姫は心を乱され魂も消えんばかりであった」の記述、後の「お嘆きのあまり飲食を絶たれた」との記載は七歳と九歳では全く違い、九歳の保立道久氏の大姫誕生説を安元二年(1175)説が妥当と考える。

 

 同四月二十六日条において、堀親家の郎党藤内光澄によって武蔵入間川の河原で義高は若い命を絶たれた。このことは極秘だったらしいが、大姫が知ることになり、「お嘆きのあまり飲食を絶たれた。運命のなすところである。御台所(政子)もまた、その後心中を察しになり、御悲しみは大きかった。このようなことで殿中の男女も皆、愁いにしずんだという」。そして大姫は嘆き悲しむ日々を送った。病に倒れ、頼朝、正子は医師に診せ、僧に祈願させるが一向に良くならなかった。頼朝の妹の子である一条高能との縁談も拒絶し、さらに頼朝が画策した後鳥羽天皇への入内の話もあったが、建久八年(1197)七月十八日、二十歳前後で大姫は一期(いちご:生まれてから死ぬまで。一生。一生涯)となったのである。義高の命を絶った藤内光澄は政子が頼朝に進言し、梟首(きょうしゅ:さらし首)された。これはあまりにも道理に合わない仕置きだが、大姫の悲しみを母政子の大姫を思う気持であったのだろう。その後の大姫の生涯を語っていくことにする。 ―続く