鎌倉散策 東慶寺、三人の女性住持、五「縁切り法」  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:左から天秀尼、用堂尼、覚山志道尼)

 昭和二十九年(1959)『鎌倉市史』の編纂時に高柳光壽氏により残された資料を整理解読され、寺伝及び編纂物の歴史書以外に千姫と天秀尼の関係を示す書状等が十数点残されていることを見つけ出されている。天秀尼は養母・天樹院(千姫)に対して手紙やびわ、筍、花などを送り、天樹院は侍女筆の礼状を送っている。身寄りの無い天秀尼にとって養母天樹院は恩を受け、実母のような存在だったと思われる。

 

 寛永二十年(1643)に天樹院が東慶寺の伽藍を再建し、同年の会津加藤家改易の二年後に天秀尼は正保二年(1645)二月七日に入寂(にゅうじゃく)した。霊碑及び寺伝に記され、享年三十七歳であり、長命であった天樹院は養女・天秀尼の十三回忌に東慶寺に香典を送っている。天秀費の墓碑は歴代住持の墓が並ぶ墓所に一番大きな無縫塔(むほうとう:主に僧侶の墓塔として使われる石塔・仏塔)であり、墓碑銘は當山第二十世天秀法泰大和尚と記されている。また、側には「大月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう:墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種)があり「天秀和尚御局、生保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の入寂の半年後であり、御局と刻銘があるため天秀尼のお世話をしていた人と言われている。しかし、墓は格式が高い宝篋印塔で法名が「院」ではなく「院殿」であるため相当身分の高い人、かつ尼ではない一般在家の女性である事は確かだ。一説には豊臣秀吉の側室で後に天秀尼の世話をしていたという甲斐姫のものとの説があるが、十分な資料は無く、定かではない。東慶寺住職・井上正道氏は東慶寺にかなりの功績があった人物。また、天秀尼が相当の恩義を感じていた天秀尼にとって功労者。あるいは常に天秀尼の側にいて、天秀尼を教育した人物。そして天秀尼の心のよりどころであり、心の支えだったのではないかと推測されている。東慶寺には、この人物についての文献や伝承は一切無く、ただ墓が残されているだけである。歴代住持の墓所に在家(出家していない人)の宝篋印塔が存在するのは極めて異例である。そして天秀尼の入寂により、秀吉の血統は断絶した。

 

(写真:東慶寺住持墓所天秀秀尼の無縫塔)

 東慶寺の寺法「縁切り法」は、東慶寺開山の覚山志道尼が駆け込み寺と言われる女性救済の寺の寺法を作ったと寺例書にきされている。「・・・三年間当時へ召し抱え、何卒縁切りして身軽になれる寺法を始め貞時から勅許を仰いで、この縁切寺が公認され、五世用堂尼は縁切女三ヶ年辛苦な寺勤めは不憫と出入り三年二十四ヵ月とされた」。五世用堂尼の優しさがうかがえることができ、東慶寺の水月堂の水月観音遊戯半跏坐像は用堂尼が住持していた頃に安置されたと私は考える。この優しく、凄然とした顔立ちの中に用比尼の姿を感じさせてくれる。

 

 鎌倉期・室町期の資料が焼失したため当時の状況を物語るものはないが、寺社奉行が管轄していたようであった。寺例書では、開山以来書かれている縁切り寺法は現存する文書として証拠になる資料は江戸時代になってからの資料が現存し、元文三年(1738)の離縁証文が最も古いとされ、事実を伝えている。女性が離縁することが許されなかった時代において、この寺に駆け込み三年修行すれば妻の方から離縁ができるという特権であった。しかし、残された文献によると、江戸時代に「松岡役所」と呼ばれる寺役所が境内にあり、駆け込んだ女性はそこで取り調べを受けたといわれる。近くに数件宿があり、取り調べの際、女性と男性は別宿に泊まらされた。駆け込み寸前で捕らわれた女性は身に着けたものを寺に投げ入れれば寺に入ったことみなされた。離婚に至る前に当人同士が話し合いを行い、復縁をするように寺が働きかけたようである。現在の家庭裁判所のような役割を担っていた。「松ヶ岡男を見れば犬が吠え」「松が岡男の意地をつぶすところ」。

 

 今は尼寺ではなく、円覚寺派の臨済宗寺院であるが、季節によって育てられた花々を見ると尼寺あった事を思いださせてくれる。今は「杜の学校」と共同で境内の土壌改善が行われており、整備が行き届かない事があるために参拝時の拝観は無料にしていただいている。しかし、訪れる人は宗教施設である事を踏まえ、まずは本殿に赴き、本尊釈迦如来像に手を合わせ家族の幸せや亡くなられた親族、友人・知人の供養を唱えていただきたい。今こうして自分があるのもご先祖様のおかげです。特に十八日に参拝できる水月観音遊戯半跏坐像は素晴らしい一言です。何故か見ると自信が癒され、優しくなっている自分を見ることができるでしょう。そして、この寺院が鎌倉中期から始まり、三人の女性寺住が如何に生きて、この寺と寺法を守ってきたかを知り、できれば住持の墓所に足を進め、手を合わせていただければ、自称「東慶寺を愛する者」にとっても幸いです。 ―完