鎌倉散策 東慶寺、三人の女性住持、四「天秀尼」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 東慶寺は、南北朝期に後醍醐天皇皇女・容堂尼が五世東慶寺住持となり、室町期には鎌倉尼五山第二位の寺格を持つ。その後は、代々関東公方、古川公方、小弓公方の娘が住持を勤めていた。

 戦国期も終焉を告げ、豊臣秀頼の息女の「天秀尼」は東慶寺に入寺する。母の名も出家前の俗名も不明であるが、成田五兵衛助直の娘が母とする説もある。元和元年(1615)大阪城落城直後、同時代の日記『駿府記』に大阪城の落城の七日後の五月十二日条に「今日秀頼公御息女、従京極若佐上尋出捕之註進、秀頼公男子在之由内々依聞召、急可尋出湯由所々費被触云々」とあり、これが初見とされている。また『台徳院殿御実記』巻三十七、元和元年五月十二日条に「これは秀頼の妾成田氏(吾兵衛祐直女)の腹に設けしを」とあるが、『台徳院殿御実記』は十九世紀に入り編纂されたもので、同時代の資料には見ることができない。そして『台徳院殿御実記』では、京極若狭守は秀頼息女八歳なるをとらえて献ず」と記されており、『駿府記』や落城十日後の細川忠興書状などでは七歳となっており、生年は慶長十四年(1609)と見ることができる。『駿府記』『台徳院殿御実記』で記されている、天秀尼と同母か異母かは不明であるが、年子の兄とされる国松は元和元年五月二十一日に捕らえられ、二十三日には京都六条河原で斬首されている。八歳であった。

 

 『台徳院殿御実記』の五月十二日条には「北の方(千姫)養ひ給いしなり」と記され、大阪城内に居たころから養女としていたとも考えられる。千姫は浅井三姉妹で父は浅井長政、母はお市の方である。三姉妹は茶々(淀殿)、初(常高院)、江(崇源院)であり、末娘の江と二代将軍になる徳川秀忠とに生まれた息女であった。慶長八年(1603)に七歳で豊臣秀頼と結婚するが、慶長二十年(1615)大坂夏の陣で祖父徳川家康の命により落城間際の大阪城から五月七日に救出され、翌八日、秀頼が場内山里丸の蔵に籠り自害し、その蔵から火が昇り大阪城は落城した。その後、秀頼と側室の間に生まれた天秀尼が処刑されそうになった時に千姫は自らの養女にして命を助けたとされている。通説においては、直ちに出家する事を条件に許されたとされた。また、東慶寺の由緒書には「大坂一乱之後天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上当山の入薙染(ちせん:仏門に入る、出家する)、十九世瓊山和尚(小弓公方足利義明の孫足利頼純の娘)御附弟(弟子)に被為成と記されている。「大坂陣山口休庵咄」などでは国松は七歳まで乳母に育てられ、八歳の時、祖母・与野殿の妹京極高次妻・常高院が、和議の交渉で大阪城に入るとき、長持ちに入れられ場内に運び込んだとされる。天秀尼もそれと同様に他家で育てられ国松と同時期に大阪城に入ったという説もあるが、定かではない。

 

 千姫はその後、元和二年(1616)に桑名藩主本田忠正の嫡男本田忠刻の正妻になっている。本田忠刻との間に勝姫、幸千代二人の子を設けるが、元和七年(1621)、幸千代が三歳で早去。寛永三年(1626)には、夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と亡くなり本多家を娘の勝と出て江戸城に入り、出家して天樹院と号した。千姫はこの時期を通し、寂しく辛いものであっただろう。出家後、竹橋御殿で二人は過ごすが、寛永五年、勝姫は千姫の父秀忠の養女として池田光正に嫁ぎ、天樹尼(千姫)は一人で竹橋御殿にて過ごす。天樹尼は、すごく勝姫のことを心配したと語られている。その後、光正と勝姫の間に嫡男綱政が誕生し、寛永二十年(1643)天秀尼が亡くなる二年前に鎌倉の東慶寺の伽藍を再建している。晩年は三代将軍徳川家光の庇護を受け側室の夏と家光との間に生まれた三男の綱重を養子としたことで大奥に対しても大きな発言力を持つようになった。四代将軍家綱の時代には大奥の最高顧問的な権威を持つことなり、各藩においての婚姻の調整等の依頼が続き幕府と各藩の調整を介している。寛文六年(1666)二月六日、千姫は江戸で波瀾の生涯に幕を閉じた。享年七十歳であった。

  

 天秀尼に戻るが、東慶寺事例書において、元和元年大阪城落城後、千姫の養女となり、家康の命により七歳で当時に入られた。入寺に際し、家康から何か願い事はないかと聞かれ、「旧例の寺法断絶無き用」と願ったと記され、後の東慶寺二十世となり法名を天秀法泰尼と安名されている。豊臣秀頼息女であるため、それなりの寺格を有する尼寺で江戸から近い点において東慶寺が選出された。その背景には東慶寺十九世瓊山院の妹であり秀吉の側室であり、秀吉の死後、家康の娘降姫に仕えていた月桂院の働きがあったのではと東慶寺住職だった井上禅定氏は語っている。

 東慶寺は縁切寺法を持つ縁切寺、駆込寺として有名であるが、江戸期において幕府から縁切り法を認められたのは東慶寺と上野国の万勝寺だけであり、ともに千姫所縁の寺である。先ほど記したように、天秀尼が入寺の際に家康から文で「何か願い事はないか」と問われ、「開山より旧令の寺法(縁切寺法)が断続無く相立てば、これに過ぎたる願いはありません」と願ったとされ、七歳の天秀尼が事実そう答えたかは定かではないが、この事により東慶寺の寺法は「権現様御声懸仮」となった。

 

 天秀尼が二十世住持に就いた時、会津騒動とも伝わる会津改易事件があった。『大猷院殿御実記』巻五十三、五月二日叙に記述がある。寛永二十年(1643)に改易の事実は記されているが東慶寺、天秀尼の記載はない。この事件に天秀尼のかかわりを記述しているものが『武将感状記』(正徳六年(1716)と水戸藩の士官で編纂された『松岡東慶寺考』(文化五年(1808)である。

 簡略すると豊臣秀吉の下で武功を立て「賤ヶ岳の七本槍」の一人加藤嘉明が関ヶ原で家康にし、関ヶ原で武功を上げ、与伊予松山藩二十万石から蒲生氏が治めていた会津四十万石とに国替えされる。その四年後に六十九歳で嘉明は亡くなり、嫡男明成が家督を継ぎ会津二代目藩主となった。父義明とは性質が全く違い、民の年貢の引き上げ、遅延の年貢には利息を付ける等の私利私欲に走った。筆頭家老・堀主水が再三諫言するが明成は家老色を罷免してしまった。堀主水は一族の三百人を連れ会津を立ち去る。しかしその際、城に向け鉄砲の一斉射撃を行い、関所を押し破り立ち去った。参勤交代で江戸にいた明成は激高して追っ手を差し向け、自身は高野山に妻子を東慶寺にむかわせた。堀主水は高野山から紀州藩、そして幕府にも助命を願い出たが徳川三代将軍家光は「主水の言い分もあるが家臣はどのような主君でもあっても従うもので、まして城に鉄砲を放ち、関所を破ることは許されるべきではないと」堀主水の身柄を秋成に引き渡した。二年余りの騒動は主水と弟二人の斬首で終わるはずであったが、秋成は東慶寺に兵を差し向け妻子までも召し取ろうとした。『武将感状記』巻之十「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依手明成の所領を召し上げらるる事」に「…その身は高野に入り、妻子は鎌倉の比丘尼所に遣わしぬ。…鎌倉に逃れたる主水の妻子を、明成人を遣わして之を縛りて引寄せんとす。比丘尼の住持大いに怒りて、頼朝より以来この寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るにを理不尽の族(やから)無動至極せり。明成を滅去するか、この寺を退転せしむるか二つに一つぞ、此の儀天樹院殿に訴へて事の勢解くべからずに至る。此れに於いて明成迫って領地会津四十万石差し上げ、衣食の料一万石を賜り石見の山田に蟄居せらるる。」とあり、天秀院は義母の天樹院を通し幕府に訴えた。その後、明成は、折れて無事に妻子を会津に連れ戻したようである。しかしその後、明成は「我は病で藩政を執れるみではなく、また大藩を治める任意は耐えられず所領を返還したい」と申し出した。幕府は加藤氏の改易・都立節を命じたが加藤嘉明きの幕府に対する忠勤等も考慮して明成に一万石を新たに与え家名再興をゆるした。この事件で天秀尼のの武家の子女として生まれた毅然とした振る舞いは「旧例の寺法断絶無き用」と願ったとされる事を思い浮かべる。また、東慶寺と幕府の密接な関係が窺うことができる事件であった。 ―続