鎌倉散策 東慶寺 三人の女性住持、三「用堂尼」 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:東慶寺用堂尼墓標に向かう石段)

 東慶寺五世用堂尼は後醍醐天皇の皇女(天皇の娘)である。後醍醐天皇は正妃である中宮の西園寺禧子(後の皇太后)を寵愛し、そして、元徳二年(1330)十一月二十三日に当時の真言宗最高の儀式「瑜僞祇灌頂(ゆぎぎかんじょう)」を受けさせ、禧子を聖界においても日本の頂点に立たせる等の寵遇を与えた。この地位を与えられた妃は先例がない。二人は仲睦まじく『道鏡』などで取り上げられている。しかし後醍醐帝は実在する后妃は八人とされるが、諸説や古文書により中宮・後宮は二十人以上にわたり、皇子、皇女合わせて三十人を超えている。

後小松天皇の勅命により系図が応永三十三年(1426)に作成された天皇系図として信憑性が高い『本朝皇胤紹運録』では二十人の女性との間に十七人の皇子と皇女十五人の子が設けられている。有名な皇女として瓊子(たまこ)内親王は十六歳の時に後醍醐帝が隠岐島に流されることとなり童姿に変装して一緒についていくが、米子で船に乗る前に見つかり、その地の安養寺に留まったとされ二十四歳の若さで亡くなった。祥子(しょうし/さちこ)内親王は、母は阿野廉子で、後村上天皇と同父母で姉とされ、伊勢神宮斎宮で日本史上最後の斎宮である。勅撰歌人であり『新千載和歌集に一種が入集。准勅撰和歌集『新庸葉和歌集』二十六首が入視されている。

 

 東慶寺五世用堂尼の生母は不明だが吉田忠房の女が母と言う説もある。母の所在が不明と言う事は、身分が低かったと考えられ、親王の宣下は得られず、皇女として名を連ねた。寺伝によると用堂尼は、腹違いの兄である護良親王の菩提を弔うために鎌倉の東慶寺に入寺された。この鎌倉の地に何人かの従者と来たとは思われるが、寂し辛いものであったと思われる。この入寺に関して、後醍醐帝の命であると考えられるが、それらを示す資料は見当たらない。

 

(写真:鎌倉宮)

 護良親王は討幕軍の軍事部門の統括者であったが、 建武の新制において与えられた征夷大将軍の地位を剥奪されている。軍事力強化を狙い、武士の棟梁として存在感を高める足利尊氏に懸念を持ち醍醐帝に進言するが聞き入れられなかった。建武元年(1338)六月七日、護良親王は尊氏を討とうとするが失敗し、逆に尊氏から強い抗議を受けた後醍醐帝により十月二十二日武者所に拘引された。後醍醐帝の背後には寵妃阿野廉子との皇子の義良、成義が親王宣下を受け恒吉親王は立太子としていた。後醍醐帝は討幕の役目を終えた護良親王の排除と、護良親王による足利尊氏の排除を考えたのではないかと言われている。建武元年十一月十五日、足利直義に預けられ、鎌倉で幽閉された。実質的に後醍醐帝は足利尊氏に人質に出したようなものであるが、後醍醐帝にとって護良親王は役目を終えたものであったと考える。

 

(写真:鎌倉二階堂 護良親王墓)

 建武二年七月に亡き北条高時の子・時行が信濃で兵をあげ、鎌倉は一時占領されてしまう。中先代の乱である。足利直義は時行が鎌倉に攻め込み護良親王がその手に下ることを恐れ、その前に配下の淵辺義博に護良親王を殺害させた。『太平記』第十三巻、兵部卿親王を害し奉ることに記載されている。「宮は何時ものように闇夜の様な土牢の中で、朝になったことも知らぬようで灯を掲げ、御座にて経を唱えていた。淵野辺は迎えに参った理由を申し、護良親王は御輿を庭に担ぎ置いた事を見て「汝は、我を殺しに来たのだな。その旨心得たり」と仰せられ、淵野辺の太刀を奪おうと走り懸かって来た。半年の間、籠の中におられたが御足も軽快に御心は勇み立った様に思えた。土牢の中で護良親王を組み伏せ、太刀を抜いて喉元を掻き切ろうとすると、親王は首をちぢめて剣先を咥え、一寸ほど剣先を歯で噛み折った。淵野辺は、その刀を投げ捨て脇差を抜き護良親王の胸に二度刺し、弱った処を、御髪(御首)を掴んで引き上げ御首を落とした。籠の前に走り出て明るい所で御首を見れば口の中に折れた剣先が未だ口の中に留まり、御眼(まなこ)は生きたる人の様であった。淵野辺は「干将鏌鎁(かんしょうばくや)の古事にちなみかような首をば敵に見せぬことぞ」と言い、傍の藪の中へ投げ捨てて帰った。」とその最後は壮絶なものであった事が窺える。

 

(写真:鎌倉二階堂 護良親王墓)

 東慶寺には、護良親王の幼名「尊雲法親王」と書かれた位牌が祀られている。東慶寺が後醍醐帝の皇女用堂尼が護良親王の菩提を弔うために入られたが入寺された年月は定かではない。しかし、皇女が入寺されたことで寺格が上がり「御所寺」「松岡御所」「比丘尼御所同格紫衣寺」と称された。そして、室町期の鎌倉尼五山第二位の寺格を持つが、用堂尼の資料等は、『鎌倉市史・寺社編』に、その後の永生十二年(1515)火災により焼失したとされている。『鎌倉市史・資料編・第三第四「釈迦如来像名」に本尊の墨書名に「本尊計出候、菩薩座光取出(水月観音遊戯半跏座像とかんがえられる)」とあり。もっとも古いものとしては戦国期天文の頃の『五山記考異』が残されている。

 用堂尼が護良親王の菩提を弔い入寺したことで、江戸時代に護良親王の土牢、墓、そして理智光寺は東慶寺が管理するようになり、現在の二階堂の永福寺跡周辺の土地を有していた。明治期に入り明治天皇が護良親王を祀る鎌倉宮造営を命じ、東光寺跡の地を有していた東慶寺は寄進され、造営に着手された。

 

(写真:東慶寺本殿:釈迦如来坐像と用堂尼、覚山尼像)

 『過去帳』に「後醍醐天皇姫宮、入当山薙染受具、応永三年(1396)丙子年八月八日巳の刻入寂し」と記されている。一度も京に戻ることなく入寂された。生年が不明のため、享年は定かではない。墓標は東慶寺の「覚山志道尼」のやぐらと並び、やぐらの中に収められた五輪塔の前には、何時も花が絶やされず飾られている。 ―続く

 

(写真:用堂尼やぐらと五輪塔)