覚山志道尼(かくざんしどうに)は、八代執権北条時宗の正妻で、名前は正確には伝わっていないが、時宗夫人として後世呼ばれている。しかし、『吾妻鏡』建長四年(1252)七月四日条、午の刻に秋田城介(安達)義景の妻室が女子を安産したという。堀内殿と言うのがこれである。」と記載されており、時宗との結婚後に堀内殿と呼ばれたようである。彼女は北条時房(北条時政の子で政子、義時とは異母弟)の娘が安達義景と結婚して鎌倉の甘縄の安達邸で生まれた。父義景が出生の翌年に亡くなり、二十一歳離れた義景の異母兄・安達泰盛の猶子(ゆうし:養子により簡略化された関係)として育てられた。夫となる北条時宗は建長三年(1251)五月十五日に五代執権北条時頼と北条重時の娘(葛西殿)との子として、同じ鎌倉の甘縄にある安達邸で生まれている。時宗が堀内殿と一歳年上になり、安達景盛の娘・松下禅尼が三代執権北条泰時の子・時氏の正室で四代執権経時、五代執権時頼の母で時宗の祖母にあたる。また、堀内殿の父義景の妹が松下禅尼で叔母にあたる、時宗は祖母である甘縄の松下禅尼の邸を伺うことがあったと考えられ、堀内殿とも幼い時から知る遊び相手だったかもしれないと思われる。この当時の結婚に関しては家と家との政略的関係が重視されるが、時宗と堀内殿のような関係は珍しいかもしれない。堀内殿は弘長元年(1261)四月、十歳で北条得宗家嫡子・時宗十一歳に嫁ぐ。この二人の夫婦仲は、時宗が帰依した無学祖元の証言から中睦まかったとされ、文永八年(1271)十二月、二十歳で貞時(後の九代執権)を産んでいる。そして時宗は他に側室を持たなかった事で二人を窺うことができる。
時宗の時代は、蒙古襲来・元寇による対策で鎌倉幕府及び日本が窮地に立つ時代でもあった。神風により撃退したとされがちであるが、幕府の情報収集能力、対応と無策な点で、一度目の文永十一年(1274)十月五日から二十日までの文永の役では、三万から四万の蒙古軍襲来により、かなりの被害が出ており、敗戦ともいうべき状況であった。しかし、嵐の夜、蒙古・高麗軍は被害があったが一斉に退却している。その蒙側不帰還者は、高麗側資料によると一三五〇〇人であった。その後二度目の弘安四年(1281)五月十一日から閏七月七日までの弘安の役では、蒙古・高麗軍の東路 軍と中国の江南軍が加わり水夫を含めれば五十五万人前後が押し寄せて来ている。蒙古・高麗軍の戦闘方式の把握、石築地の構築などの対抗策はとっているが、戦況で見ると良くて五分五分、悪く見れば四部六で苦戦状況であったが、中国の江南軍の遅延と台風という大風が吹いたため蒙古・高麗軍・江南軍が壊滅的状況になった。しかし、幕府は、その後も襲来の恐怖に怯えながら対策を行うため経済的にも御家人等の疲弊が増していった。悪党などの活用により、治安と幕府の権勢が弱体化し、鎌倉幕府の滅亡へと導く発火点であったと考える。
時宗は、その後に元寇による両軍の戦死者を弔うため北鎌倉・山之内に円覚寺を建立している。しかし、弘安七年(1284)には、すでに病床であったとされ、自身の死期を悟り四月四日に無学祖元の下で出家し三十四歳で逝去し、自ら開基した瑞鹿山円覚寺(仏日庵)に葬られた。時宗の死因については結核とも心臓病と伝えられているが、祖父時氏から父時頼、時宗と早去しており、遺伝的に早去の家系になったのか、あるいは近親婚による影響だった可能性もある。
堀内殿は時宗の出家に対し自らも同日出家をして法名「潮音院殿覚山志道」と安名された。現在では「覚山志道尼」と呼ばれている。 時宗死後、子息貞時が執権に就任、兄の安達泰盛が幕政を主導し弘安徳政など精力的な改革を行うが、弘安八年(1285)内管領平の頼綱の讒言を信じた執権貞時が泰盛をはじめとする安達一族を誅殺する「霜月騒動」が起こった。「覚山志道尼」は遠江国笠原荘を受領し、晩年仏事に努めるが、同年に貞時の了承を得て鎌倉松ヶ丘に東慶寺を建立し、安達一族の女、子供たちを庇護したとされる。その後、再び「平禅門の乱」で貞時が平頼綱を滅ぼし、安達の勢力が回復し泰盛の弟顕盛の孫が秋田城介に補任され、安達康宗の娘が貞時に嫁ぎ十四代執権高時を産み再び外戚関係を有した。安達の勢力の回復には「覚山志道尼」の存在が大きくかかわったとされる。さらに、夫の暴力などで苦しむ女性を救済する政策を行い、これが由来として東慶寺が縁切寺、駆け込み寺となったと寺の寺法で定めたとされている。
これに関する直接的な資料は無いが、東慶寺所蔵『旧記之抜書』には「自分は出家の身ながら、女の事であるから、利益の種、世のため人のためになることもあまりできないが、女という者は不法の夫に身をまかせ使えるのが当たり前とされているので、時によると女の狭い心から、ふとよこしまの思い立ちで自殺などする者がいて、不憫であるから、そのようなものは三年間当時へ召し抱え、何卒縁切りして身軽になれる寺法を始め貞時から勅許を仰いで、この縁切寺が公認され、五世用堂尼は縁切女三ヶ年辛苦な寺勤めは不憫と出入り三年二十四か月とされた」寺例書では、開山以来書かれている縁切寺法であるが現存する文書で、その証となるものは、元文三年(1738)の離縁証文が最も古いとされ、松ヶ丘文庫に残されている。そして東慶寺開山の「覚山志道尼」は五十五歳で逝去された。東慶寺の墓所、「覚山志道尼」のやぐらの中の五輪塔の前には、何時も花が絶やされず飾られている。 ―続く