鎌倉散策 東慶寺、三人の女性住持、一 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 梅雨入りが宣言され、晴れ間が出た六月十八日の金曜日に東慶寺に向かった。ブログを配信し、昼から運動不足解消に台峰を通り北鎌倉の山之内の住宅街の階段を降り北鎌倉の役に着く。およそ住居から二十分強である。それから東慶寺に向かう。

北鎌倉の東慶寺は別名「縁切寺」としてよく知られている。宗派は臨済宗円覚寺派。山号寺号は松岡山東慶総持禅寺。創建弘安八年(1285)。開山は覚山志道尼(かくざんしどうに)。開基は北条定時である。鎌倉幕府八代将軍北条時宗の没後、夫人・覚山志道尼により弘安八年に開山され、別名「縁切り寺」「駆け込み寺」の尼寺として明治三十五年まで存在した。その後、円覚寺派に属している。

  

 平日の人が少ない閑静な東慶寺は、私が北鎌倉で最も好きな寺院である。この日(毎月十八日公開)は水月観音半跏像を見せていただける日で、本堂に上がり本尊の釈迦如来像(もともとは鎌倉尼五山一位の太平寺にあったとされる)に手を合わせる。本堂の左奥に続く客殿に水月観音半跏像が安置された部屋があり、そこに寺院の方が座られているので「お参りさせていただきます」と断わり、参拝させていただいた。四十センチ程の半跏座像であるが本当に美しいお姿で目には玉眼が施され、小さな爪まで掘られている。左右のどちらかの見る方向方を変えると表情が変わって見ることができ、私は向かって右手から見る方が優しく見えると感じる。書籍等で水月観音半跏像と書かれているが、現在は学術的によりリラックスをした表現で造形された像に遊戯(ゆげ)座像と区別され、水月観音遊戯半跏座像とされている。制作年は不明だが、室町初期、宋から入ったものとされる。制作者と制作年が判明していれば国の重要文化財あるいは国宝になってもおかしくない美しさである。志納を済ませ本堂を後にした。

 

 久しぶりに墓地の方を歩く。ここには哲学者の西田幾太郎、和辻哲郎、作家の高見順ら多くの学者や作家が眠っており、その墓標を見つけ出すことも容易である。そして後醍醐天皇の皇女で寺住五世の用堂尼の墓標がある。よく考えてみると用堂尼に対する知識が少なく、少し調べてみたくなった。開山の覚山志道尼と天秀尼については、以前から調べていた。

 

 東慶寺は鎌倉尼五山の中で現存する唯一の寺である。尼五山は室町期の五山制度を倣って導入された臨済宗の寺格で京都と鎌倉にそれぞれ五山があった。鎌倉では、太平寺(西御門)、東慶寺(北鎌倉)、国恩寺(東慶寺門前にあったとされる)、護法寺(絵柄天神西)、禅明寺(報国寺又は衣張山にあったとされるが定かではない)され、今は東慶寺以外すべて廃寺になり存在場所も定かではない寺院もある。

 駆け込み寺と言われる女性救済の寺の寺法は、覚山志道尼のころからと言われているが、資料は江戸時代になってからの資料が現存する。「駆け込み寺」と言われた理由に三人の女性、覚山志道尼、後醍醐天皇の姫宮で兄の護良親王の菩提を弔うために東慶寺に赴いた用堂尼。そして、豊臣秀頼の娘・天秀尼(千姫の娘ではなく側室から生まれている)である。東慶寺には三人の墓が残されており、この三人の女性について述べさせていただく。 ―続く