鎌倉散策 『曽我物語』一、「富士の巻狩」曽我兄弟の仇討  | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

  建久四年(1193)、三月から五月にかけて頼朝は巻狩りを計画実施した。信濃の三原野、下野の那須野、駿河の富士野である。この場所は坂東八か国とそれ以外の地域とをつなぐ要衝である。本来の巻狩りは、中世に遊興や神事祭礼、および軍事教練のために行われた狩競(かりくら)の一種であった。そして、鹿や猪など生息する狩場において多人数での四方からの包囲を行い、囲みを縮めながら獲物を追い詰め射止める大規模な狩猟である。

 

 当時の歴史背景は、文治五年(1189)、奥州合戦が終結し東国奥州において源頼朝は東国における武士の棟梁としての地位を構築する時期であった。建久元年(1190)十一月九日後白河法皇と後鳥羽天皇に拝謁するために頼朝は上洛する。権大納言と二十四日には右近衛大将に任じられるが、十日を過ぎると両職を辞任、十二月十四日に京を離れ鎌倉に向かった。本来、両職とも在京が基本となり、頼朝は鎮守府将軍または、征夷大将軍を求めていたとされる。両将軍においては、その地域において、今で言う行政権、司法権、立法権が得られるからである。建久三年(1192)三月に後白河院は崩御し、頼朝は五月まで服喪を続けていた。後白河法皇は頼朝に征夷大将軍の叙任を嫌っていたが。朝廷は法皇死後の同年六月に頼朝に征夷大将軍を任じた。そして頼朝は、将軍家政所を開設し下文を大量に発給し始める。いわゆる鎌倉幕府の創設である。後白河院の一周忌が明けるまで諸国での狩猟が禁止されていた。ここで頼朝は、各地の御家人に対し権威を高めるため巻狩を行う。

  

 信濃の三原野、下野の那須野の巻狩りでは武蔵・上野・信濃・下野・常陸の御家人を動員した。その中から弓馬に卓越した頼朝に忠誠心の抜きんでた二十二人の武士を選び弓箭(きゅうせん)を帯びて武装することを許した事が特色とされる。他の大多数の御家人は、非武装で頼朝に選ばれた武士舘の狩猟の実演を見せつけられ、頼朝への忠誠心をあおった。また、坂東八か国とそれ以外の地域とをつなぐ要衝である事から、頼朝がその支配領域を誇示した政治的示威であったとされる。

  
 

 建久四年(1193)五月十六日に富士の巻狩が行われ、伊豆・駿河及び東海道の御家人が参加している。そして、同二十八日、富士野神野(静岡県富士宮市『曽我物語』においては富士野の伊出・井出と明記)にて曽我兄弟の仇討が行われ、『吾妻鏡』五月二十八日条に「小雨が降り、日中以後、晴れた。子の刻に故伊藤次郎祐親法師の孫の曽我十郎祐成・同五郎時致(ときむね)が、富士野の神野の御旅館におしかけ、工藤左衛門慰祐経を殺害した。また備前国住人で吉備津宮の王藤内という者がいた。平家の家人瀬尾太郎兼保に味方したために、因人として召し置かれていたが、祐経を介して誤りはないと陳謝したので、去る二十日に本領を返し給わり帰国の途に就いた。ところが、やはり祐経の志に報いようと思い、途中から戻ってきて、酒を祐経に進め談笑していたところを、ともに殺害された。そのときの、祐経・王藤内らの相手をしていた遊女の手越の 少将と黄瀬川の亀鶴らが悲鳴を上げ、その上に祐成兄弟が父の敵を打ったと大声で呼ばわった。このため人々は大騒動に陥った。詳しい事情は分からないままに、宿侍の者たちがみな走り出して来た。雷雨が鼓を撃つかのようであり、闇夜に明かりを失って、ほとんど東西さえわからないほどだったので、祐成らによって多くのも者が疵をこうむった。すなわち平子野平右允・愛甲三郎(季隆)・吉香小次郎(友兼)・加藤太(光員)・海野小太郎(幸氏)岡部弥三郎・原三郎(清益)/堀藤太・臼杵八郎である。殺害されたのは宇田五郎はじめとする者である。祐成は新田四郎忠常に立ち向かって撃たれた。時政は(頼朝の)御前をめがけて走り参った。将軍(源頼朝)は御剣を取り立ち向かおうとされたが、左近将監(大友)能直が押しとどめた。この間に小舎人童(こどねりわらわ)五郎丸が時致を搦め捕った。そこで大見小平次に(その身柄を)預けられ、事態は平穏に戻った。(和田)義盛・(梶原)景時が仰せをうけたまわって祐経の死骸を検視したという。  左衛門慰藤原朝臣祐経 工藤滝口祐継の子息」(五味文彦・本郷和人編『現代訳語 吾妻鏡』)。

  

 『吾妻鏡』二十九日条、曽我吾郎時致が頼朝の前に召し出され狩野介宗茂、新開荒次郎実重を通じて夜討ちの宿意を尋問したところ、時致が怒って申した。「祖父伊東祐親法師が殺害された後、子孫が零落したので、側近くに侍ることは許されないとはいえ、最後の所存を申すについては、決して汝らを通じて伝えるものではない。確かに直接に言上した。早く退け」。頼朝は思うところがあり直接聞いた。時致は「工藤祐経を討つことは、父の死骸の恥を雪(すす)ぐためであり、ついに私の鬱憤の志を披露できました。兄祐成は九歳から、時致は七歳の年から以降、常に復讐の思いを抱き、片時も忘れたことはありません。そしてついに仇討を果たしました。次に御前に参りましたことについては、祐経がただ御寵愛を受けていたものというだけではなく、祖父祐親が御前の御勘気を受けておりました。あれこれと恨みがありましたので、拝謁を遂げたうえで自殺するためでした」。聞いたものはみな舌を鳴らし、感嘆を現した。…頼朝は時致が、とりわけ勇者であるので許すべきかと、内々にためらわれた。しかし、工藤祐親の子息・吠丸が泣いて売って申したので時任の身柄を犬房丸に預けた。時致の年は二十歳であった。犬房丸は鎮西忠太と号する男にそのまま梟首させたという。同七日、頼朝は駿河国から鎌倉に戻る途中曽我太郎祐信がお供に祇候していたところ、道の途中でお暇を給わった上に、曽我庄の年貢も免除され、曾我祐成兄弟の菩提を弔うよう命じられた。七月二日、武蔵守平賀義信が律師と号する養子の僧を召し進めた。越後の久我山にいた曽我十郎祐成の弟であり昨夜鎌倉に参着し、今日、梟首されると聞き、甘縄の辺りで念仏読経下御自殺したという頼朝は大いに悔やみ嘆かれた。もとより死罪にしようとする気持ちはなく、ただ兄に同意していたのか否かを召して尋問しようされるためでだけであったという。

 

 この仇討は、武士社会における仇討の模範とされ、江戸期において歌舞伎・能。浄瑠璃といった芸能の題材となり、赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討に並ぶ日本三大仇討の一つとなった。坂井孝一著『曽我物語の史実と虚構』においては「中世以来の日本人の心、その歴史的伝統をさぐるには、きわめて興味深い素材である」と記載されている。 ―続く