鎌倉散策 日本の歴史区分と中世 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 日本史の歴史区分として原始・古代・中世・近世・近代・現代と分けられるが、その規定という定説はなく、歴史・時代区分は研究者により広く受け止められている。私が勉強している中世はどこからが始まりで、どこで終わりかとは、その研究者や論者によりその主張が異なっている。

 

(写真:奈良 東大寺)

 古代の始期については、三世紀(古墳時代)、五世紀(古墳時代のヤマト王権勃興期)、七世紀(飛鳥時代・大化の改新)説があり、研究者の間では七五三論争と呼ばれている。私自身は主に国家形成とともに律令制による荘園綱領制度が確立していく時代を示していると考える。これは歴史の連続性により重層性があるためであり、一概にここからここまでと断定する事が出来ないためである。そして、国家形成、社会構造、経済構造などの変革により特徴と示される歴史的時期の区分を行っているからである。それらの変革に対し変革の要因や要素となった時期も含めたりもしなければならないためで、それを歴史の連続性・重層性という。

 

(写真:京都御所)

 中世は荘園公領制の時代の終焉期で、武士による政権が確立した事が指標とされ、十一世紀後半から十二世紀とされ、終期は荘園公領制が消滅した十六世紀後半の太閤検地とに求められたりする。また、織田信長の室町幕府十五代将軍義詮の追放により終焉とする説もある。近世は織田信長の将軍追放や太閤検地から確立された武家政権による時代を示し、終期は明治維新前後とされる。近代の始期は幕末から明治維新からとする大日本帝国憲法により天皇性による国家体制を示す場合や十八世紀の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする説もある。近代の終期は第二次世界大戦の敗戦とし、現代が始まるとする説や日本国憲法制定、サンフランシスコ平和条約によるものや冷戦構造が崩壊した時、またバブル崩壊期により経済成長が終わった平成(1990)期にするべきとの意見等がある。これらの区分により政治体系の変革や発展段階的な史観のみで区分するのは歴史の連続性・重層性に対応していないとの限界が指摘されている。そのため時代を区分対象ではなく移行するものとして捉える「時代以降論」を提唱する研究者も現れている。したがって、研究者や論者によりその主張が異なっている。

  

(写真:京都 仁和寺)

 原始においては考古学資料に基づき、文化形態や生活形態により区分され、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代とされる。古代においては政治の中心地・所在地や為政者による時代区分も存在して古代には古墳時代(大阪府)、飛鳥時代(奈良県明日香村)奈良時代(奈良市)平安時代(京都市)。中世には鎌倉時代(神奈川県鎌倉市)、室町時代(京都市)またこの時代においては南北朝時代、戦国時代として中国の歴史から借用した歴史区分も用いられている。近世には安土桃山時代(滋賀県安土町・京都市伏見区)、江戸時代(東京都)。

 近代では天皇制において明治時代、大正時代、昭和時代とともに「大日本帝国時代」とも政体による区分も用いられている。現代では戦後の昭和時代、平成時代、令和時代と続いている。しかし、このまま時代が変遷し続いていくと現代の期間が長くなり時代区分の構成や新たな名称等ができる可能性もある。「前近代」「後近代」や「前現代」など。文化上において歴史を語る場合、縄文文化、弥生文化、古墳文化、飛鳥文化、白鳳文化、天平文化、弘仁文化、貞観文化、国風文化、院政文化、鎌倉文化、北山文化、東山文化、桃山文化、元禄文化、化政文化などが用いられている。先述した時代の区分で古代は、主に奈良時代、平安時代を指すが、律令制政治形態による荘園公領制の時代を示し、中世は荘園公領制の終焉期で、武士による政権の確立が指標とされる。主に鎌倉時代、室町時代を指す。また鎌倉期、室町期と言う名称を使用する場合もある。

 

 中世の始まりとして、何時からと示すと、歴史の連続性と重層性を考える必要を示す。政治形態の変化、武士の台頭、荘園公領制の変革期の点を考慮すると、白河法皇の院政開始、保元・平治の乱から、また治承・寿永の乱からとも考えられる。そして、単純に鎌倉時代からとする考えもある。 私自身は武士の台頭により荘園制度が政治形態の変革、荘園制度の変容を考えると保元・平治の乱からと考える。しかし、研究者や論者によりその主張が異なるため、それぞれの考えがあっても、それは、後の歴史研究の発展を示すことになると考えるからだ。

 鎌倉時代の始まりすら多数の説があり治承四年(1180)八月の源頼朝の挙兵時、文治元年(1185)三月の壇ノ浦での平家滅亡時、建久二年(1192)征夷大将軍に任じられた時、等が挙げられる。政治体系から見ると承久三年 (1221)六月、承久の乱において幕府が勝利し後鳥羽院を隠岐に配流した時点も考えることができる。私自身、政治の主体が二重政権であったが、東国における鎌倉幕府が成立し将軍政所を設置した時からと考えるのが妥当と思う。東国支配は幕府創設において征夷大将軍の任官は必要であったため建久二年(1192)征夷大将軍に任じられた時が根拠を成し、妥当と考える。やはり、奈良時代から平安時代まで続いた朝廷・公卿の律令体制化が中で、新たな武士による政治体制を整えていく、源頼朝が一石を投じたことにより、政治および文化の変革を行った時期である。この頼朝の功績は、日本の歴史上において称賛に値する価値のある事だが、他の歴史上の人物に比べ人気は薄い。しかし、やはり「いい国作ろう、鎌倉幕府」に求めたい。

 

 鎌倉時代は、日本の文化的な視点から見ても現在に通じる原点とも言えると考える。栄西の『喫茶養生記』は、お茶の原点である。「田楽能」は、もともと平安時代中期に「田植えの豊作を祈る田遊びから」とされるが、鎌倉期において芸能要素が加わり、庶民的な芸能として広まった。そして、現在の能の成立に強い影響を与えている。また、宗教的に見ても鎌倉新仏教など庶民宗教の始まりを指す。そして、経済的において貨幣経済が浸透し経済変革を迎えた時代である。この時期、東南アジアで貨幣経済を展開していたのは、中国に続き日本のみであった。宋銭を輸入し、貨幣経済の下で金利という新しい経済行為が生まれ、それにより格差をより加速させ、悪党から有徳人を出現させた。

 鎌倉時代は、後醍醐天皇の王子護良親王の令旨を受けた新田義貞の鎌倉攻めにおいて敗れ、北条高時が東勝寺において自害し、北条氏滅亡により鎌倉幕府が崩壊したことで鎌倉時代は終焉を迎えた。その後建武の新制期を経て南北朝時代・室町時代を迎える。それでは室町時代の終焉は何時を指すかであるが、主に元亀四年(1573)七月に織田信長により十五代将軍足利義明を京都から追放した時点が一般的であるが、十三代将軍足利義輝が永禄八年(1565)永禄の変で松永久通・三好義継に殺害された時点で事実上室町幕府は崩壊したとする説もある。事実上、下克上の時期で戦国時代に入っているため、その考えがあっても当然であり、中世の終焉をこの辺りに考えるのが妥当であるだろう。これらが歴史の連続性と重層性である。