(写真:海岸通り染屋時長邸跡碑、甘縄神社)
染屋太郎時忠は由比の長者として鎌倉の寺社巡ると度々出てくる人物である。話は奈良時代末期から平安初期の話である。染屋時忠は藤原鎌足の四代目の子孫で玄孫(やしゃご)とされる。鎌倉には藤原鎌足の伝説が浄明寺の鎌足稲荷にも残され、鎌倉の名称とされた逸話も残されている。また、時忠は南都の東大寺の良弁僧正の父であり、文武天皇御時(697~707)より聖武天皇(724~728)の神亀年間に至る間に鎌倉にて関東諸国の総追補使として東国八か国を治めた。東夷(あずまえみし)を鎮め由比の長者と称えられ多数の逸話が残されている。
(写真:甘縄神社:
染屋太郎時忠邸跡の碑は長谷二丁目のバス停海岸通り「文学館前」のすぐ近くにある。そして、近隣の鎌倉最古の神社とされる甘縄神明神社を和同三年(710)に僧行基の草創により時忠が神明社と神輿山円徳寺を建立したとされている。また別伝では「平の直方」は染屋時忠の婿であるとされ、「平直方」は「源頼義」を婿に迎え鎌倉の地を頼義に譲ったとされ、「八幡太郎義家」が生まれたという伝承がる。源頼朝の河内源氏の始祖である。しかし、前九年の役が永承六年(1051)に起きて、頼義が討伐のため奥州に向かっているため三百年ほどの差がある。この伝承は、その域を超える。
(写真:由比ガ浜と六地蔵)
由比の長者染谷太郎時忠には悲しい話がある。三歳になる一人娘が浜で遊んでいた時、大きな鷲にさらわれ、遺体(『新編辺鎌倉記』では骨肉とも記される)となって見つかった。時忠は嘆き悲しみ、供養にと娘の遺骨を如意輪観音像の胎内に納めたと伝わる人物である。その如意輪観音像は来迎寺(西御門)に安置されている。
(写真:西御門 来迎寺)
また、供養のため塔を建てたところを塔の辻と呼ばれ、鎌倉に七か所、筋違橋(宝戒寺)付近、鉄ノ井付近、建長寺前、浄智寺前、円覚寺前、下馬、笹目に置かれたとされる。現在は由比ガ浜通(長谷小路)の笹目の十字路のみ残されている。また伝説によると、その塔の辻の所に娘の肉片や骨が散らばっていた所とされ供養のために塔を建てたとも伝えられている。
(写真:笹目の塔の辻と塔の辻碑)
大町の辻の薬師堂は医王山東光寺の境内にあったとされ、鎌倉幕府滅亡後に廃寺になったようである。宝永元年(1704)大町名越嶽(名越切通付近)にあった古義真言宗長善寺に移された。長善寺は奈良時代の神亀年間(724~729)に由比の長者染谷太郎時忠の建立と言われる古刹であり、供養の為に建立されたかは定かではない。しかし、その娘の遺品が見つかった地であったとされる。その後、長善寺は大町辻に移り、江戸期に焼失して廃寺になり辻の薬師だけが残った。そして明治期に現在地に横須賀線施行工事により現在の地に移された。
(写真:辻薬師堂と鎌倉宮)
その他に魔の淵のお地蔵様、妙法寺(大町)鷲宮、六国見山の稚児墓、多門院の岡野観音も時忠の娘に関する逸話が残されている。魔の淵のお地蔵様は鎌倉宮参道の右側に置かれているお地蔵様は、昔その横を流れる川が「魔の淵」と呼ばれ青黒い水が流れていた。ここに住む多くの住民が魔物の餌食となり、杉本寺の住職がここに地蔵増を置き収まったとされる。また染谷時忠の娘がわしにさらわれたとき、その血がしたたり落ちた場所ともいわれている。鎌倉宮は明治期に建立され、昔はこの地に医王山東光寺があったとされる。
(写真:妙本寺祖師堂裏と蛇苦止堂)
妙法寺(大町)鷲宮は時忠の娘の残骨が発見された地であるとされ、六国見山の稚児墓は山頂から尾根道にある稚児墓があり、時忠の娘のものと言われる。多門院の十一面観音(岡野観音)は六国見山の南で時忠の娘の残骨が発見されその地に岡野観音堂を建立し菩提を弔った。その堂に安置されていたのが十一面観音で、胎内に娘の骨を埋めたと言う。明治の神仏分離により多門院に安置された。
由比の長者 染屋太郎時忠の親として娘を思う気持ちはどの時代も同様であり、この鎌倉には戦乱に包まれた悲話も多く存在するが、人としての情けを問う逸話も多く残されている。
(写真:多門院)