天気予報では、晴れの良い天気で、気温も二十三度ほどと示していたが、青空という天気には及ばなかった。しかし、気温は散策にちょうど良い気温で、汗ばむこともなかった。材木座の来迎寺をあとにして、五社神社の参道に戻り、バス道に出ると向かい側に向福寺がある。
以前訪れた際、ご住職の奥様に良くしていただき、本殿に上げていただき、本尊も参拝する事が出来た。本尊は阿弥陀三尊で観音菩薩像、姿勢菩薩像を脇侍とする。阿弥陀菩薩像は造立当時の姿をとどめ、中尊の深く刻み込まれた衣文の線は美しく、良く知られている。また、本尊の来迎印を結ぶ指先が震災により、欠損した。また聖観世音像は二十五センチほどの細身のすらりとした美しい立像である。鎌倉三十三観音霊場の第十五番札所である。手入れの行き届いた寺院であるが、本日は本堂も閉じられて人のいる気配はしなかった。浄財を納め、手を合わせ、いつも通りに祈願し、向福寺を後にした。
宗派:寺宗藤沢山清浄光寺末。 山号寺号:円龍山向福寺。 創建:弘安五年(1282)と言われる。 開山:一向俊聖。 本尊:阿弥陀三尊(木像南北朝期の作:県指定文化財)。寺宝:本尊、木製聖観世音像等。本堂は関東大震災で崩壊、昭和五年(1930に再建された。
一向俊聖は鎌倉時、代時宗の開祖の一遍上人同様、諸国を遊行遍歴し、踊念仏により布教を行い「一向宗」をおこした。江戸時代に幕府により時宗に統合されたため、向福寺は藤沢遊行寺(清浄光寺末寺となった。
北に進み、JRの踏切を渡ると辻の薬師堂がある。建久元年(1190)に源頼朝が二階堂に建立した医王山東光寺の境内にあったものと言われる。東光寺は護良親王が幽閉され、後に足利直義に殺害された寺院であり、その後廃寺になった。投稿時の場所は現在の鎌倉宮の地にあったと言われている。東光寺には、他に色々と悲しい伝承が残されている。お堂に祀られていた木造薬師如来立像は行基の作と言われていたが、鎌倉市の文化目録で平安時代後期の作と推定、脇侍の日光・月光菩薩像は室町時代を下る作であり、年代的に行基の生存と整合性が合わない。昭和十五年の調査で体内から多くの経と二階堂東光寺の本尊の銘札が出て来たという。十二神将像は、十二体の内八体は力強く、鎌倉時代の作で、四体は江戸時代に造補された像であるとされる。覚園寺十二神将は辻薬師十二神像の原型であったと言われ、鎌倉の十二神将像で最も古い秀作である。室町時代の鎌倉仏師朝祐の作とされており、系図上、慶派のつながりは推測であるが、運慶の動きを引き継ぐような像である。神奈県指定文化財に指定され、平成五年からの十四年の修理を終え、鎌倉国宝館に移管された。堂内には十二神将のレプリカが置かれており、覗き穴から賽銭を入れると三十秒ほど照明が付き堂内を窺う事が出来、見事である。しかし今回、コイン投入口が封鎖されており、薬師如来像は暗い堂内をガラス越しに見ることしかできなかった。何故か残念である。この辻野薬師は大町辻の町内会の人々によって手あつく維持管理されている。
海岸通りを超え、左に行くと教恩寺の参道に着く。教恩寺は山号寺号が中座山大聖院教恩寺と言う時宗の寺院である。鎌倉に時宗の寺院は少なく、十二所の「光触寺」、西御門の「来迎寺」、山ノ内の「光照寺」、材木座の「向福寺」「来迎寺」、大町の「別願時」と「教恩寺」の七寺院である。もともと、教恩寺は小田原北条氏の三代、北条氏康が光明寺境内に知阿(ちあ)を開山とし建立されたと言われ、この地にあった光明寺末寺の善昌寺が廃寺になった事から延宝六年(1678)、貴誉(きよ)上人により、この地に移った。以前の山号は宝海山であったがこの地に移り、この地が通称中座であったので中座山と改めた。
宗派:藤沢清浄光寺末(とうたくせいじょうこうじまつ)。 山号寺号:中座山大聖院教恩寺。
創建:延宝六年(1678)。 開山:知阿上人。 開基:北条氏康。 本尊:阿弥陀如来三尊。
寺宝:本尊木造阿弥陀仏三尊像(県重文)、秘仏聖観音菩薩立像。
教恩寺と平重衡とゆかりのある寺院であり、平重衡は源平合戦で、東大寺、興福寺を焼き払った平清盛の五男である。門前の案内板に書かれた分を引用して紹介させていただく。
「平重衡とのゆかりがある寺院で、平清盛の五男で、自らの容姿を牡丹の花にたとえ優しく爽やかで、しかも凛々とした武勇を誇る平家の副将軍であった。重衡は一の谷の戦いで敗れ、撤退の祭、梶原景時に捕らえられ、鎌倉に護送された。頼朝の尋問に対しても武将らしく堂々たる態度と、優雅な物腰の立派な人柄は、頼朝を感嘆させ、捕らわれた身であるが特別な待遇を受けた。頼朝の仕女である千手を侍らし酒宴を許されたという。この酒宴が縁で重衡と千手の二人は恋に落ち、重衡が護送されるまでつかの間、癒された日を過ごすことができたと言われる。やがて重衡は奈良へ護送され文治元年(1185)六月二十三日、木津川のほとりで斬首処刑された。その後の千手の足取りは定かではなく、悲しみのあまり床に伏し、そのまま生涯を閉じたとも、また出家したともいわれ、儚い悲恋の逸話があり、その酒宴を催した場所が教恩寺と伝わっている」。この教恩寺の地が重衡の鎌倉での居住を許された屋敷があったとされる。
本堂に安置されている阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の物で運慶作と伝えられている。頼朝が重衡に一族の冥福を祈るよう与えた像とされ、重衡も厚く信仰したという。清盛の命により東大寺・興福寺の南都焼討を行ったことにより南都衆から深く恨みを買うことになった。南都衆がその引き渡しを求め、文治元年(1185)六月二十三日、木津川で東大寺の使者に引き渡され即刻斬首された。重衡享年二十九歳であった。また、『吾妻鏡』に文治四年(1188)四月二十五日に亡くなったことが記載されている。「廿五日 辛卯 今曉千手前卒去す〔年廿四〕。その性はなはだ穏便にして人々の惜しむところなり。前故讃井中将重衡参向の時、不慮に相馴れ、かの上洛の後、恋慕の思い朝夕休まず。怨念の積もるところ。もし発病の因たるかの由、人これを疑うと伝々。」『全譯吾妻鏡』第二巻(新人物往来社刊)引用。吾妻鏡で女性の記述を記すことは珍しく、彼女の人柄の良さを表したと考える。
昼近くになり、本来ならこの周辺でビールでも飲みながら昼食をとるのだが、今はアルコールが提供できない鎌倉では、早々に住居に変えるのが無難と思い帰路に着く。運動不足の解消に朝の散策に出たが、気持ちの良い朝を過ごすことができた。 ―完