鎌倉散策 材木座を歩く、一 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 五月二十七日、今朝は、少し晴れ間が広がっているようで、市中に出て、材木座海岸から九品寺、実相寺、五所神社、来迎時(材木座)向福寺、辻野薬師、教恩寺と歩く。鎌倉のバスは一旦、鎌倉駅に向かい、それから目的地のバスに乗る。ほとんど一番遠い所まで行き、歩いて鎌倉駅に戻る。材木座までバスに乗る。材木座海岸に行き潮風にあたりウインドサーフィンやサーフィンをしている人を眺めて少し時間をつぶす。いつもなら犬を散歩される人が目立つが、今日は全く見られないので海岸を後にして、九品寺を眺めながらバス道から一歩住宅街に入ると静かな実相寺の前に出る。令和元年十一月に辻野薬師、教恩寺。十二月に実相寺、五所神社、来迎時(材木座)、向福寺の詳細を「鎌倉散策」で取り上げさせていただいている。

 

 

 実相寺の山号次号は、弘円山實相寺山門に大きく「日照尊者濱戸法華堂霊石」と書かれた板書が掲げられている。山門の奥に本堂があり、特に目立たず、静かで落ち着いた境内である。日蓮が文永八年(1271)、日蓮宗六老僧の日照が、日蓮が佐渡に流罪の間、ここを拠点とし、一門の強化、統率に当たった「浜戸の法華堂」の始まりとされて、鎌倉での布教活動を続けたと伝わる。日蓮入滅二年後、弘安七年(1284)、越後の風間信照の援助により「浜戸の法華堂」を「法華寺」とした。この寺院が實相寺の前身である。また、實相寺は鎌倉時代の曽我兄弟に父の仇として打たれた武将の工藤祐経の屋敷跡として伝えられ、日照の母は、この工藤祐経の娘と伝えられている。日照上人は下総印東の領主印東祐照の武家の子として生まれ、十五歳で出家をし、翌年に京都の比叡山で天台の教議を学び成弁(じょうべん)と称した。天台の協議において疑問を解く事が出来ず、鎌倉の名越の松葉ヶ谷の日蓮の草庵を訪ねた。日蓮の法華経に対する協議は成弁を心服さするに充分であった。日蓮の草庵を訪ねたのは僧侶、俗人であれ、この成弁が初めてであったと言う。日蓮が日蓮宗を立教改宗した建長五年(1253)に弟子となった。日蓮没後は一門の長老として仰がれ、法規第一、智慧第一と称され「六老僧」という直弟子六人の筆頭とされた。本殿裏の墓地に日照上人の墓標が置かれている。

 

 實相寺から五社神社まですぐにたどり着く。材木座一帯の鎮守社で、明治期に東鎌倉村に乱橋村と材木座が編入され、大字乱橋材木座となり、その後、材木座と改められた。乱橋村には三島社、八雲神社、金比羅社があり、材木座には諏訪社、視女(みるめ)八坂社の二社があった。明治六年(1873)に三島社が材木座の鎮守として村社に列格された。明治四十一年(1908)に村内の四社(八雲神社、金比羅社、諏訪社、視女八坂社)が合祀され社名を五所神社と改名された。乱橋はかつて村名であり、鎌倉十橋の一つでもあった。現在は残っていない。五社神社は非常に珍しいものが多く残されており、一つ一つ見て回るのも楽しい。疱瘡老婆の石、キリシタンお春の像等。また、国の重要美術品に指定(昭和十六年)された「不動種子板碑」は、この様に完全に保存された物はきわめてまれである。不動明王の種子は「カーン」であり、かつて、感應寺(かんのうじ)の境内に立てられていたが、廃寺となり、五所神社創建の祭に、こちらに移された。

  

(写真:五社神社社殿、、疱瘡老婆の石、不動種子板碑)

祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと)三島神社、天照大神は視女八坂社、素戔嗚命は八雲神社、建御名方命(たけみなかたのみこと)は諏訪社、崇徳院御霊は金比羅社。 例祭:六月第二日賜。例祭は今月第二日曜日に行われる予定であったが、関係者のみで行われるとの事である。御朱印はこの日から用意されていた。

 

 来迎時は、創建は:建久五年(1194)で、鎌倉には西後門と材木座に来迎時が存在し、宗派は両寺院とも時宗藤沢清浄光寺末である。この材木座の来迎寺は、元は源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔う為に建立した真言宗能蔵寺があった。開山の音阿(おんあ)上人が時宗に帰依したため、建武二年(1335)に改宗し、寺名を来迎寺に改めた。鎌倉三十三観音霊場第十四番札所である。

宗派:時宗藤沢清浄光寺末。 山号寺号:随我山来迎寺(ずいがざんらいごうじ)。 創建:建久五年(1194)。 開山:音阿上人。 本尊:阿弥陀三尊で義明の守り本尊と言われる阿弥陀三尊像であり、運慶の作とされている。 寺宝:本尊木造阿弥陀如来三尊立像、義明と多々良三郎(義明と共に十七歳の若さで石橋山の合戦に加わり討たれる)の五輪塔、応永・正長年銘などの宝篋印塔、子育て観音像がある。この寺の子育て観音像は知恵のある良い子を育てると言われ、庶民の寺としても親しまれている。寺院裏の墓地には源頼朝に与し、三浦半島の衣笠譲で玉砕した三浦大介義明の墓とその家臣の百余基の五輪塔が並び残されている。源頼朝が挙兵し石橋山の合戦に三浦義明の嫡子三浦義澄が暴風雨のため出陣が遅れた。丸子川東岸で頼朝が打たれたと聞き三浦の衣笠城に戻る。そこに秩父平氏の畠山、河越、江戸氏が攻めこみ義明は義澄を逃がすため、わずかの手勢で城に立てこもった。その後、義澄は三浦を脱出し、安房国の安西氏(三浦氏と同族)を頼り、三崎から船で逃れ、頼朝は土井実平とともに伊豆の岩浦(真鶴岩町)から船で安房国に逃れ、三浦勢と合流する。頼朝は義明の十七回忌で「あなたはまだ自分の中で生きている」と言い「百六つの義明」と語ったという。 ―続く

   

(写真:三浦大介義明と十七歳で鵜の地をなくした多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔、三浦一族の墓)