鎌倉散策 『曽我物語』二、仇討の経緯 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 曽我兄弟の仇討においては『曽我物語』が全容を記しており、「年代記」的な叙述はとっているが「物語」「文学作品」である。しかし、鎌倉時代の歴史史書として用いられる『吾妻鏡』においてもこの事件は記載があるため、事件そのものは、史実である。この事件は、口承を重ね、語り継がれ、作者不詳で多くの異本があり、最古の真名本『曽我物語』がよく取り上げられる。なお、物語の成立には一人の女性が深くかかわったとされる。 曽我十郎祐成は大磯の「虎」と言う遊女と巡り合う。『曽我物語』では、仇討が近づき十郎の異変に気付いた「虎」は、祐成と別れることがあれば髪を剃り出家する覚悟だと流れる涙を抑えて訴えた。祐成は「虎」の志を知り仇討に出ることを伝えたとされる。「方々のやうなる人(そなたのような遊女たち)は、祐成が党(分際)のようなる貧道の者には憑ところ何事にかあるべき。一月に四、五度、十度も通ひぬらむに、一度も嫌望気(いぶせげ)なる気色を見ざりつるこそ、後生までも忘れ難く存じ候へ」。そして最後の夜を泣き明かし、翌日、曽我と中村の酒井、山彦峠(六本まち峠)で名残りを惜しみつつ別れていく(引用:坂井孝一著『曽我物語も史実と虚構』)。

 

(写真:ウィキペディアより引用、一万丸 箱王丸(曾我兄弟) 歌川国芳画(天保期)と、曾我物語圖會   歌川広重画(弘化期))

 隠された史実を物語として広めたのは、『曽我物語』にも登場する曽我十郎祐成の虎御前こと虎女だという説もある。物語は彼女から口承に口承を重ねて徐々に広まり、南北朝時から室町・戦国期を通じて語り継がれた。曽我兄弟や虎女に関する史跡や伝承は、北は福島から南は鹿児島まで広い範囲に広がるが、そこからはこの物語が語り継ぎて広まっていった様子を検証する事が出来る。口承は、主に巫女や瞽女(ごぜ:日本の女性盲人芸能者を意味する歴史的名称)などの女語りで行われたという。やがて真名本『曽我物語』の編纂により能に上演されるようになり、これが江戸時代になると仮名本『曽我物語』が歌舞伎化され、また浄瑠璃人形として『曽我物語』の演目として定着したとされる。特に延宝四年(1676)正月に初代市川遠十郎が『寿曽我対面』を初演して、ここで演じた曽我吾郎が大当たりした後は、この演目が正月興行に欠かせない出し物となった。

 

 前回の「富士の巻狩」曽我兄弟の仇討については、簡略明瞭な五味文彦・本郷和人編『現代訳語 吾妻鏡』を引用させていただいた。今後は、真名本『曽我物語』と『吾妻鏡』を用い詳細を記述しておきたい。この真名本『曽我物語』は全十巻により語られており、各巻の表紙に文句・副題がつけられており、その文句は「本朝報恩合戦謝徳闘諍集(しゃとくとうじょうしゅう)」と記載され、真名本『曽我物語』には随所に曽我兄弟は父の河津祐泰の仇を討つということ自体が恩に報いることとしながらも、母の恩、義父の曽我祐信の恩として、報恩の大切さを強調した物語でもある。

  

 曽我兄弟の父の仇を討つ経緯は『曽我物語』によると、工藤祐経の義理の叔父で元義父の伊藤祐親に恨みを抱いていた。両者は一族であり、その先代当主、工藤祐孝の所領分割の措置に不満を抱いた祐親が祐経の所領を奪った上、祐経に嫁いだ祐親の娘・万却御前とも離縁をさせている。安元二年(1176)十月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に借りに出た祐親を待ち伏せ、小藤太と三郎が刺客として矢を放った。その矢は祐親と一緒にいた嫡男河津祐泰にあたり祐泰は落命する。小藤太と三郎は、すぐに伊藤祐親の追討により殺害された。

 祐泰の妻萬江御前(『吾妻鏡』『曽我物語』において名は明記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)は残され、四十九日の法要も過ぎたころ、萬江御前は一人の男子を産む。後に「御房殿」とよばれ、萬江御前には育てることができないため河津の弟の伊藤九朗祐長夫婦が養子として引き取られた。伊藤祐親は娘萬江御前を曽我祐信と再婚させる。一萬丸と箱王丸は曽我の里で成長し、兄弟は「五つ列(つ)れたる鳥の中に、一つは父、一つは母、残りの三つは子供にてぞあらむ。(中略)母はまことのと母であるけども、曽我殿はまことの父にて無きこそ口惜しけれ。」と雁の群れを見て無き父を慕ったと伝えられている。真名本『曽我物語』には、この曽我の里での生活は厳しく「貧道」そのものであったことが記されている。

  

 祐親の孫である曽我兄弟は厳しい生活の中で成長した。兄の一萬丸は元服して曽我の家督を継ぎ、曽我十郎祐成と名乗ったとされるが、『吾妻鏡』では、祐信には先妻との間に実子祐綱がおり、祐綱が家督を継いでいることが記されている。弟の筥王丸は、父の河津祐泰の菩提を弔うため箱根権現社の稚児として預けられた。筥王丸が十七歳になった九月の上旬に箱根権現社別当から僧侶になるため灌頂を受けるよう指示されるが、灌頂を受ける前日の夜に、考え抜いたあげく仇討を遂げる覚悟を決めて山を後にする。里に下りた筥王丸に祐成は喜んで迎え、長年親しくする北条時政の館に訪れ筥王丸の元服の烏帽子親を願い出た(本文では祐成が北条時政の子息小四郎義時を通して申し入れる)。建久元年(1190)十月半ばの事であり、時政は快諾して「本鳥(もとどり)を取り上げ(元服させ)、名を北条五郎時宗(時致)」と付けたとされている。名字に北条がつけられたことは史実と違い、その理由は定かではないが、兄十郎に対し五郎時宗と付けたことは義時の四郎に次いで、とも考えられ、伊東の者を指す「祐」の字は用いられず「時」を入れていることから時政の何らかの考えがあったように思われる。

 『曽我物語』において、元服した筥王丸を見た母は「今日より後は親ありとも思うべからず。童もまた子を持ちたるっとも思うまじきぞ」と泣く泣く勘当を言い渡した。そして「河津殿ほど果報少なき人はなし」と、菩提を弔う子が元服してしまったことを嘆いたと記される。 ―続く