(写真:ウィキペディアより、西行法師(菊池容斎画/江戸時代)
西行、六十九歳で、重源上人との約束を受けて東大寺再建費用の砂金を勧進するために、二度目とされる奥州に赴くために旅立つ。『西行物語』では、この途中、有名な遠江天龍川の渡しでの事件を記載している。西行らが、天竜川の渡しで船に乗ったところ、人がたくさん載っていたため船が沈みそうになった。先に乗っていた武士が「あとから乗ってきたあの坊主は、下りろ」と言う。西行は「渡し場では、このようないざこざもよく起こるものだ」と思い、知らぬふりをしていると、情け容赦せず馬の鞭で西行を打った。血が頭から出て全くむごたらしく見えたが、西行は少しも恨む様子もなく手を合わせ乗った船を降りた。これを見て供をしていた僧が鳴き悲しみ、西行はじっとその僧を見守り「都を出た時から道中で、きっと苦しいことがあるだろうと言ったのは、この事なのだ。たとえ手足を切られ、一命を亡くすとしても、全く恨みに思うべきではない。もし武士であった昔の気持ちでいたかったら、髪を剃らずに黒染の衣をまとわずにいなくてはならぬ。釈迦のお心では、みな慈悲を第一として、我々の様な悪をなし善行を積まぬものをお救い下さるのだ。だから仇で仇を奉じるようとすれば、その怨みには絶えることなく次々と続く。『忍の心で敵に対すれば、仇はただちに消え失せる』とも言っている。経文の中には『無限の間勤めた善行も、一瞬間の悪をなせば、みな消え失せる』とも言っている。また不軽菩薩(ふぎょうぼさつ:『法華経』常不軽菩薩品に見える常不軽菩薩)は打たれる杖を痛がらず、「私は深くお前たちを敬い、軽く見たり卑しめたりする心を持つまい。何となれば、お前たちはみな仏道を実践して、まさに菩薩になろうとしているのだから、」と言って、依然として打った人々を礼拝し続けなさった。こにれらは、みな他人のために益(やく)あれと願う、仏道修行の姿なのだ。これからもきっとこういう苦しみはあるだろう。お互い心を痛めてはならぬから、お前は都へ帰れ」と言って、東西に分かれた(桑原博史『西行物語 全訳中』)。
一緒に修行してきたこの層が西行の在欲の時の様子を思い出して、こういう情けないことに出くわして悔しく思ったのも西行自身当然と思って心静かに落ち着くのであった。この話は西行が武士出身者である胸中と同時に出家僧の仏道修行をうまく説明した話である。阿仏尼が著した『十六夜日記』に「二十三日、天竜の渡りといふ。船に乗るに、西行が昔も思い出でられて、いと心細し」と記しており、八代執権北条時宗の時代に相続の訴訟で単身鎌倉に来た時で、弘安五年(1282)頃と思われる。この天竜川の渡し事件は創作であると考えるが、その頃には、この様な話の原型が出来上がっており、西行伝説として広まっていたと考えられ、『西行物語』の中に記されている。また、ここで「供なりける入道」と記載され、修行僧の名は明記されていない。この修行僧は、かつて西行の家人として使われていた者で、西行の出家と同時に出家し、法名を西住と付けられていた。西住は、ここでは「供なりける入道、泣き悲しむ」と「心弱き」僧のように語られているが、西行と西住の関係は出家時には仏道を目指す同じ志を持つ者で、主従・弟子関係には当たっていない。そして、西行の歌集で西行自身が「同行に侍りける人」と呼び、僧として敬意をはらっているのが西住一人であったとされる(桑原博史『西行物語 全訳注』)。しかし、この渡りの場の事件で「これからもきっとこういう苦しみはあるだろう。お互い心を痛めてはならぬから、お前は都へ帰れと言って、東西に分かれた」。この対応をどう考えればよいか。物語は西行の胸の内を複雑に語っており、出家遁世した自身、このような屈辱を受けても耐える事こそ修行と自身に言い聞かせているように聞こえる。また、西行は陸奥への長旅において西住の身を考えた措置であったのか。文治二年は、治承・寿永の乱で最も貢献した源義経や参戦した東国武士が、頼朝の認可なく後白河院(朝廷)から官位を受けた事により怒りを受け、京都に留まり謹仕させ、鎌倉に戻ることを許さなかった。 武士の棟梁として位置付けられた頼朝にとっては自身の認可なく朝廷より官位を受ける事は、二君に仕えるべきことになり、統率の取れない状況に至る。これを頼朝が最も嫌い恐れた事であった。頼朝は壇ノ浦で捕縛した宗盛・清宗親子を鎌倉に送るべく鎌倉に凱旋しようとした義経を腰越で留まらせ、鎌倉入りを許さなかった。義経は腰越状を送り叛意のない事を告げるが、許されぬまま京に戻り頼朝に反旗を上げたが、失敗して奥州藤原秀衡を頼り、向かっていた頃である。また、東国においても、まだ平家に与する武士が残されていたため、遠江・駿河国までは安全であったが、まだ東国において不安定で、特に奥州平泉までは危険な旅だったと考える。西行は出家後に奥州・陸奥、四国、九州など行脚し旅慣れていたことは事実だが、西住はどうだったのかは不明である。また、この年に西行は既に六十九歳になっており、西住においても同年代であったと考えるため、西行の西住に対しての思いやりだったのかもしれない。
西行、六十九歳で、重源上人との約束を受けて東大寺再建費用の砂金を勧進するために、二度目とされる奥州に赴くために旅立つ。『西行物語』では、この途中、有名な遠江天龍川の渡しでの事件を記載している。西行らが、天竜川の渡しで船に乗ったところ、人がたくさん載っていたため船が沈みそうになった。先に乗っていた武士が「あとから乗ってきたあの坊主は、下りろ」と言う。西行は「渡し場では、このようないざこざもよく起こるものだ」と思い、知らぬふりをしていると、情け容赦せず馬の鞭で西行を打った。血が頭から出て全くむごたらしく見えたが、西行は少しも恨む様子もなく手を合わせ乗った船を降りた。これを見て供をしていた僧が鳴き悲しみ、西行はじっとその僧を見守り「都を出た時から道中で、きっと苦しいことがあるだろうと言ったのは、この事なのだ。たとえ手足を切られ、一命を亡くすとしても、全く恨みに思うべきではない。もし武士であった昔の気持ちでいたかったら、髪を剃らずに黒染の衣をまとわずにいなくてはならぬ。釈迦のお心では、みな慈悲を第一として、我々の様な悪をなし善行を積まぬものをお救い下さるのだ。だから仇で仇を奉じるようとすれば、その怨みには絶えることなく次々と続く。『忍の心で敵に対すれば、仇はただちに消え失せる』とも言っている。経文の中には『無限の間勤めた善行も、一瞬間の悪をなせば、みな消え失せる』とも言っている。また不軽菩薩(ふぎょうぼさつ:『法華経』常不軽菩薩品に見える常不軽菩薩)は打たれる杖を痛がらず、「私は深くお前たちを敬い、軽く見たり卑しめたりする心を持つまい。何となれば、お前たちはみな仏道を実践して、まさに菩薩になろうとしているのだから、」と言って、依然として打った人々を礼拝し続けなさった。こにれらは、みな他人のために益(やく)あれと願う、仏道修行の姿なのだ。これからもきっとこういう苦しみはあるだろう。お互い心を痛めてはならぬから、お前は都へ帰れ」と言って、東西に分かれた(桑原博史『西行物語 全訳中』)。
一緒に修行してきたこの層が西行の在欲の時の様子を思い出して、こういう情けないことに出くわして悔しく思ったのも西行自身当然と思って心静かに落ち着くのであった。この話は西行が武士出身者である胸中と同時に出家僧の仏道修行をうまく説明した話である。阿仏尼が著した『十六夜日記』に「二十三日、天竜の渡りといふ。船に乗るに、西行が昔も思い出でられて、いと心細し」と記しており、八代執権北条時宗の時代に相続の訴訟で単身鎌倉に来た時で、弘安五年(1282)頃と思われる。この天竜川の渡し事件は創作であると考えるが、その頃には、この様な話の原型が出来上がっており、西行伝説として広まっていたと考えられ、『西行物語』の中に記されている。また、ここで「供なりける入道」と記載され、修行僧の名は明記されていない。この修行僧は、かつて西行の家人として使われていた者で、西行の出家と同時に出家し、法名を西住と付けられていた。西住は、ここでは「供なりける入道、泣き悲しむ」と「心弱き」僧のように語られているが、西行と西住の関係は出家時には仏道を目指す同じ志を持つ者で、主従・弟子関係には当たっていない。そして、西行の歌集で西行自身が「同行に侍りける人」と呼び、僧として敬意をはらっているのが西住一人であったとされる(桑原博史『西行物語 全訳注』)。しかし、この渡りの場の事件で「これからもきっとこういう苦しみはあるだろう。お互い心を痛めてはならぬから、お前は都へ帰れと言って、東西に分かれた」。この対応をどう考えればよいか。物語は西行の胸の内を複雑に語っており、出家遁世した自身、このような屈辱を受けても耐える事こそ修行と自身に言い聞かせているように聞こえる。また、西行は陸奥への長旅において西住の身を考えた措置であったのか。
文治二年は、治承・寿永の乱で最も貢献した源義経や参戦した東国武士が、頼朝の認可なく後白河院(朝廷)から官位を受けた事により怒りを受け、京都に留まり謹仕させ、鎌倉に戻ることを許さなかった。 武士の棟梁として位置付けられた頼朝にとっては自身の認可なく朝廷より官位を受ける事は、二君に仕えるべきことになり、統率の取れない状況に至る。これを頼朝が最も嫌い恐れた事であった。頼朝は壇ノ浦で捕縛した宗盛・清宗親子を鎌倉に送るべく鎌倉に凱旋しようとした義経を腰越で留まらせ、鎌倉入りを許さなかった。義経は腰越状を送り叛意のない事を告げるが、許されぬまま京に戻り頼朝に反旗を上げたが、失敗して奥州藤原秀衡を頼り、向かっていた頃である。また、東国においても、まだ平家に与する武士が残されていたため、遠江・駿河国までは安全であったが、まだ東国において不安定で、特に奥州平泉までは危険な旅だったと考える。西行は出家後に奥州・陸奥、四国、九州など行脚し旅慣れていたことは事実だが、西住はどうだったのかは不明である。また、この年に西行は既に六十九歳になっており、西住においても同年代であったと考えるため、西行の西住に対しての思いやりだったのかもしれない。 ―続く