(写真:比叡山)
西行は真言宗と係ってきた人物であるが、思想的には東密(空海の高野山における密教)より台密(比叡山における密教)に近いと考えられる。東密は教義を華厳、天台を経て大日経を最高峰に置き、厳格な密教思想により成り立っていた。しかし台密は、東密に比べ比較的解釈が自由に行われ、天台の教えと密教の教えを総合的に同格と考え融通無得な解釈を行っていた。西行は鎌倉新仏教が発生する中、浄土宗の浄土信仰を歌の中に取り込み、真言密教の仏道と歌とを融合させている。また、天台座主を四度もなり、『愚管抄』という稀代の書を著作した慈円は西行の親友の一人であった。父に関白忠通を持つ慈円は久寿二年(1155)生まれで、西行より三十八歳年下であった。兄は当時の関白兼実で藤原俊成と和歌を通して親しく、俊成の子定家や慈円とはそれが縁であったと考えるが、やはり西行の和歌に対しての魅力があったのだろう。
(写真:大隅和雄訳『愚管抄』とウィキペディアより慈円像)
前大僧正慈鎮(慈円)が無動寺に籠り、千日入道の公暁を続けていた時の歌とされる(石川一著『慈円和歌論考』)西行に申し送った歌がある。
西行法師 いとどいかにに山をいでじとおもうらん 心の月を一人すまして ―西行法師 ますます深く山を出るまいと思っていらっしゃるのでしょう 心の月を一人澄まして
西行が返しに
前大僧正慈鎮 うき身こそ猶山かげにしずめども 心にうかぶつきをみせばや ―前大僧正慈鎮この憂き身(つらい心情)はやはり山陰にしずんでいますが 心に浮かぶ月をお見せしたいのです。
慈円の修行への強い意志が「心に浮かぶ月をみせたい」との表現は密教の修行の一つ「月輪感」で月輪を対象とし正常な菩提すなわち、悟りを求める心、菩提心の観想する瞑想法である。当時、比叡山は混乱の極みにあり慈円の修行は何度も中断の危機にあった。そのような状況の中にも関わらず修行を続行する意志を表明した者であり、それを励まそうという西行の気持ちがよく表れていると『西行の風景』桑子敏雄氏は述べられている。また、桑子氏は慈円の歌の中に西行と比叡山の関係を示唆する一首を記している。円位上人(西行)が比叡山の横川からこの旅退出したが昔出家した丁度その同じ月日に当たりますと知らせてきたその返事に詠んだ歌である。
うき世でし月日の影のめぐりきて かわらぬ道をまたてらすらん ―世を逃れたその同じ月日がめぐってきて かわらない仏道をまたてらすのですね
(写真:京都 東寺)
堀田前衛氏の『定家明月記私抄』に西行との出会いの中で「時を経て私自身の中で、西行という人物が次第に巨大な何者か、日本の思想史の中にあって、それこそ隠然として重味を持った存在している、いわば端倪(たんげい:安易に推し量るべきではない、推測がおよばない)すべからず人物として見えて来る」と語られている。
藤原定家、藤原家隆、寂蓮等により編纂された新古今和歌集があり千九百七十首がおさめられている。その中でも西行の歌が最も多く九十四首が歌集に収められ、慈円が九十二首、藤原良経の七十九首と続いている。藤原定家は父藤原俊成が歌人であり、西行六十九歳、定家二十七歳人でありながら、「歌の道に専念する事に決したのは、と聞かれて、彼は即座に西行に会ったことを挙げている」。また、文治二年、西行六十九歳、定家二十七歳人この年にていかは「文治二年、円位上人(西行)、の勧進ス」として二見浦百首なるものを読んでいる。この時に勧進―進められて百首を伊勢神宮の神にて向けた者は定家、家隆、寂蓮、隆信、祐盛、公衛等の他伊勢在住の蓮位以下の四法師と度会某なる人であるが、いずれも京、伊勢の錚々たる歌人であり西行という人物の動員力を如実に表している。
(写真:堀田前衛氏の『定家明月記私抄』と西行像)
当時の伊勢神宮はそれまで神仏習合を厳しく拒絶し、僧との内外宮参詣を厳しく拒否していた。西行は僧徒の公式神宮参詣としては行基、重慶に次ぐ第三の僧となるが、家集によって知られるようになり、あたかも何でもないように内外宮に参り、高野山時代から親しい重源上人一行七百人の内宮参詣は西行が関与したともされる。
「さかきばに心をかけむゆふしでて おもえば神もほとけなり」伊勢神宮で詠んだとされる歌は、日本人の宗教観を現在でも現す一例としてあげる事が出来る。古来から、この歌について西行の自作かどうか真偽が問われる歌であり、延宝二年(1674)板本系統の『西行上人集』に収録されている。
(写真:奈良東大寺)
京都高尾の神護寺を再興した文覚上人は当時、「和歌を詠む西行を嫌い、遁世の身であれば、一筋に仏道修行の他は携るべきではない」と弟子たちに語っていたという。文覚は西行と同じように武士から出家し、神護寺再興の為に直接鳥羽院に直訴し、怒りをかい伊豆に配流された。そして伊豆で源頼朝に挙兵を促した一人である。「どこかで出会うなら頭を打ち割ってやろう」とも語った様子である。しかし西行が神護寺に現れ文覚は丁寧に挨拶をし、ねんごろに話をして食事まで出したと言い、翌朝何事もなく帰って行ったという。弟子たちは何事もなかった事を喜んだが、何時もの言う事と違う事を文覚に尋ねた。文覚は「まったく言う甲斐のない法師たちだ。あれは文覚に打たれるような者の面をしているか。文覚をこそ打つ様な者だぞ」と語ったとされる。そしてこれらの縁が基になったのか文覚上人の弟子である年若い修行僧の明恵(みょうえ)にも会い、後に和歌の真髄を語っている。
西行は多くの皇族、政治主導者、僧侶たちに接し、集める魅力があった。そして何よりも西行の魅力は、三十一字に秘めた仏道と歌の融合は、言の葉の優しさ、厳しさ、美しさと儚さを若き者達を引き付け友人として語らった事だろう。 ―続く