鎌倉散策 願わくは花の下にて、八 西行 鴨立川 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:江の島)

 その後西行は、同じ修行の道を歩む僧を京に返し、長年親しみ慣れた人なので名残惜しく思った気がすると思いながら一人、小夜(さや)の中山(現在の静岡県掛川市東方の山地)に向かった。東海道の宿場名で言うと「日坂」「金谷」の間にある難所である。小夜の中山は『古今集』東歌・一〇九七番「甲斐が嶺をささやにも見しがけけれなく横ほり伏せる小夜の中山」に歌われた歌枕(古くから和歌に使われた言葉や詠まれた題材)である。実景を見た人により歌に詠まれることはほとんどなく、言葉の遊戯として使われることが出来た。『古今集』恋二・五九四番「東路(あづまぢ)の小夜の中山なかなかに何しか人を思ひそめけむ」(紀友則)。西行は年老いた自身が、この小夜の中山を無事に越えられた事を神仏への感謝の念として伝えている。

 嵐の中、西行は大井川を渡り駿河国の岡部の宿に着き荒れ果てたお堂で休んでいたところ背後の戸を見て古い檜傘(ひがさ)が掛けてあるのを見て、都でお互いどちらかが先立って死ねば穢れた現世に魂だけは戻り、相手を極楽に導くように約束した修行僧の傘であった。京を出る前に名残惜しみ、その傘に「我不愛身命 但惜無上道」(私は我が身や命を惜しむものではない。只完全な悟りを得られぬのを惜しむのみ)と書いた。されど層はおらず、悲しく思い、涙を抑えて宿場に行き人に尋ねると「京からこの春、修行僧が下ってきてこのお堂で病気になり亡くなりました。その死体は犬が食い散らかしましたが、死体をこの近くに埋めてありましょう」。と言われが見つけることはできなかった。傘は残ったが、その人の身はどうなったのであろうか。ああ無上な世の中だ。

 

 西行は霞の頃、京を発っている。今で言うと二月末の頃で、初秋風が吹く頃、現在の岡市宇津谷(うつのや)と志田郡の境にある東海道に難所の一つ宇津野山辺を過ぎ清見が関(静岡県清水市興津町)を通り富士を見上げながら

西八五 風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな ―風になびく富士三の煙が空に消え、その行方も分からぬように、これから何処えとあてどないわが胸の思いよ

 

一三〇七 いつとなき思いは富士の煙(けぶり)にて打ち臥す床や浮島が原 ―いつ絶えるともないわが胸の思いは、あたかも富士山の煙であって、打ち臥すのは涙で身も浮くと言う、小後期島ケ原である。

 

 

(写真:神奈川県大磯 鴫立庵)

 この当時東海道は箱根越えの道は作られておらず、足柄峠を越え相模国大庭に入った。砥上原(とがみはら:現神奈川県藤沢市鵠沼付近)の沢で詠んだとされる。

四七〇 心なき身にもあはれはしられけり 鴫立澤の秋の夕暮れ ―(私のような)風流を解する心まで捨てたはずの出家の身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだ。鴫(しぎ)が飛び立つ澤の夕暮れよ。また白州正子は物の哀れを知る事が不十分な(私のような)身であっても、しみじみとした趣きの自然と感じられるものだ。鴨が飛び立つ沢の夕暮れよ。と西行が自身を卑下するような言い回しになっている。

 桑子敏雄氏は『西行の風景』で、 ―心のないこの身にも「あわれ」は知られたのだ、鴫が突然現れて飛び去った沢の秋の夕暮れの静寂にと訳されている。私もこの訳に納得する。

 西行は奥州を旅している間に千載集が選ばれと聞き、この歌を送っている。気になった西行は京に帰ろうとするが、途で知人と会い自身の詠んだ「鴫立沢」の歌が選ばれていないことを聞き、もと来た道を戻ったと伝えられている。西行自身「鴫立沢」によほど気に入り自身があったのだろう『御裳濯河歌合』の中にも入れている。

 

(写真:鴫立庵 法虎堂、円位堂)

 鴨立川(神奈川県中郡大磯町)で詠んだとする鴫立庵も存在するが、江戸期の寛文四年(1664)、小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだとされる。元禄八年(1695)俳人の大淀三千が入庵し鴫立庵と名付け第一世庵主となった。鴫立庵の標石に「著藎湘南清絶地」と刻み、中国湘江の名南方一帯の「湘南」の美しい絶景と重ね、「湘南発祥の地」として伝わる。現在は京都の落柿舎、滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場とされている。また先述したように鴨立川が読まれた地として、現在の藤沢市片瀬川のほとりと『山家集』『西行物語』等から推測され、片瀬海岸には『西行戻り松』という遺跡があり、富士山と江の島が見える風光明媚の地である。 ―続く

 

(写真:鴫立庵 五智如来像、墓碑)