鎌倉散策 願わくは花の下にて、三 義清(西行)の遁世出家の理由 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 
 保永六年(1140)十月、佐藤義清は出家して西行法師と号した(『百鍊抄』第六)。西行の出家の動機としていくつかがあげられている。

・同じ北面の武士であり親友の佐藤左衛門尉憲康の急死により『西行物語』『西行物語絵巻』では親友の死を理由に北面を辞したと記されている。憲康は義清より二歳年上の二十七歳と記載されているが『尊卑分脈』には記載がなく、伝不明である。

七五三 世の中を夢と見る見るはかなくも 猶おどろかぬわが心かな ―夢と見ながら現世のを仮と知りながら悟らない自信を嘆く。

七六三 越えぬれば又もこの世に帰り来ぬ 死出の山こそ悲しかりけれ ―死んでしまえば再び現世に戻ってこられないのが悲しい。現世は夢幻と知りつつも、なおその道理を警鐘と認識することのない我が心の至らなさよ(桑原博)

七六八 年月をいかで我身に送りけん 昨日の人も今日は亡き世に ―長年どうして無事に過ごすことが出来たのだろうか。昨日あった憲康も、今日は死ぬというむじょうの現世であるのに(桑原博)。古今集にも入り、この時の実感であったに違いないと白洲正子氏は述べている。

(写真:ウィキペデイアより、待賢門院象 法金剛院蔵)

・失恋説として『源平衰退期』に高貴な上臈(じょうろう:年功を積んだ、官位の高い人)女房と逢瀬を持ったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。

・近世初期成立の『西行の物かたり』には御簾(すだれ)の間から垣間見えた女陰の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけあったが「あこぎ」と言われて出家したとある。

・瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への出連接を取るが、美福門院説もあるとしている。

・五味文彦『院政期社会の研究(1984)では恋の相手を上西門院(父鳥羽天皇、母藤原璋子)に擬している。

「あこぎ」とは阿漕で意味は、しつこく、ずうずうしいこと、度々すること、隠れて行う事も度々になると隠しきれない、身勝手だ。そして平安期には義理人情という詞が無かったが義理人情に欠けあくどい事とされる。ここで用いられている「あこぎ」は、しつこく、ずうずうしいこと、身勝手だが適当と考える。

 

 佐藤義清(西行(は『古今著聞集』の記述において祖父の代から徳大寺家に仕えており、十五・六歳で徳大寺実能に出仕し、天承の(1131~1132)期間であった。徳大寺家は正二威位権大納言藤原公実(きみざね)の四男実義が租流であり、待賢門院璋子の兄である。『長秋記』によると保元元年(1135)、義清十八歳において左兵衛尉に任じられ鳥羽院に北面の武士として奉仕している。義清(西行)が永久六年(1118)生まれ、待賢門院(藤原璋子)が康和三年(1101)生まれ、美福門院が永久五年(1117)生まれ、上西門院が大治元年(1126)生まれである。平安後期において恋の有無しの範囲は解らないが義清(西行)と待賢門院の年の差は当時の親子ほどの十七歳である。当時の男子の感性を計るのは難しいが、美しい年上の女性として待賢門院に対して憧憬の思いを持っていた事はおかしくない。しかし、それが出家遁世の理由としては考え辛い。

六二〇 弓張の月にはづれて見し影の 優しかりしは何時か忘れん ―弦月(ゆみ月)の光が届かないところで目にした上品なあの人の面影を、忘れる事が出来ようか。

六二一 面影の忘らるまじき別かな 名残りを人の月をとどめて ―あの人の面影はいつまでも忘れる事の出来そうにない今朝の別れであるよ。尽きせぬ名残りをあの人の月に留めてくれた。きっと月を見るたび、私は思い出す事であろう。(桑原博)

六五三数ならぬ心の咎になし果てじ 知らせてこそは身をも恨みめ ―物の数でもない私の心の罪にしてしまわないで、この苦しい恋心をあの人にいっそ知らせたうえで、思いがかなわぬその時を恨むことにしよう。(桑原博)

 義清(西行)の恋の切々とした辛く激しい恋の歌と言われ、月は現世のやり切れない愁を打消していいる境遇の表象を持ちい、また相手として手の届かぬところにいる「月」に例え、自らを「数ならぬ心」と卑下し、身分の差を意識したと考える。

 

 院政時代を象徴する藤原璋子(待賢門院)は生まれてすぐに天下第一の専制君主とされる白河法皇の寵妃の祇園女御の養女になり、院の御所で暮らし始めている。七歳の時に亡くした父公実は、美男であったとされ、璋子もまた幼き頃から美形であり、白河法皇は孫のように可愛がったと『今泉』に残されている。法皇が寵愛するあまりに手を付けてしまった。法皇は璋子の事を考え適当な婿探しを行い、白羽の矢が立ったのは関白忠実の息子忠通であったが忠実は璋この素行の噂が多く、固辞したため白河院に不興を買った。忠実は日記(『殿暦』)に「…九段の姫君は備後守季道と通じており、世間の人は皆この事を知っている。不可思議也」。また、後日には「…院の姫君は、季道だけでなく、「宮の律師」増賢の童子とも密通している」と書き記し、白河法皇の孫鳥羽天皇の中宮に据える時、三度「…この様な乱行の人の乳内は、将来取り返しのつかぬことになろう。」と記載している。入内してからも白河法皇との情事は続いたとされ、鳥羽天皇は第一皇子顕人親王(後の崇徳天皇)を「叔父子(おじこ)」と呼び、法王の胤子(いんし)であることは公然の秘密であった。これらの事から保元の乱を起こす要因となっている。

 

 佐藤義清(西行)が出家遁世した理由は定かではないが、この当時に読まれた歌に義清の気持ちが込められているのではないだろうか。しかし、出家遁世の理由を見つけ出すことはできない。佐藤義清が徳大寺家に仕え、鳥羽院の北面の武士であったことを考慮しなければならない。義清(西行)は徳大寺家の子とも知り、璋子に憧憬を持ち、そして鳥羽天皇に仕えていたが好感を持つことができなかった。いずれ争いごとは起こることを予測していたのかもしれない。義清(西行)は幼少から癇癪もちで、好き嫌いが酷く、荒い気性に、自分が気がつきながらどうする事も出来なかった。義清(西行)は顕人親王の一歳年上であり、幼き頃から親交があったとされ、仕えるならば崇徳帝と考えたに違いない。しかし、自身が加わることによる崇徳帝の危険度を増すことを考え、親友の死をきっかけに出家遁世したのではないだろうか。崇徳院が配流された後も西行は崇徳院と歌を交わしている。

 出家後、西行は東山、嵯峨、鞍馬などに草庵を営み、三十歳ごろに陸奥の長旅出ている。その後、久安四年(1149)前後に高野山(和歌山県高野町)に入った。 ―続く