鎌倉散策 願わくは花の下にて、ニ 義清の出家遁世 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 佐藤義清が北面の武士であったころ、徳大寺公重の菊乃会に招かれ藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んでおり、すでに歌人としての評価は得ていたとされる。しかし、白洲正子著『西行』で、少なくとも若年の頃の西行は、「相当の癇癪もちで、好き嫌いが酷く、俵藤太以来の荒い気性に、自分が気がつきながらどうする事も出来なかったのではないか。西行は決して私たちが考えるように、始めから風雅な歌人に生まれついてはいなかったのである。」と述べている。白洲正子は俵藤太を伝不明としているが他文献から佐藤氏の祖とも考えられる藤原秀郷と考えられている。

一三二七 心から心に物を思はせて 身を苦しむる我が身成りけり

聞書集二十 増してまして我が思ひはほかならじ 我が嘆きをばわれ知るなれば

一四一九 思へ心人のあらばや世にも恥ぢん さりとてやはといさむばかりぞ

この歌の「我が嘆きはばわれ知るなれば」の嘆きとは「重代の勇士」の体内に潜む暗黒の部分、― 恐るべき野獣にも似た荒い血潮を鎮めるために、仏道に救いを求めたのではなかった。彼は世をはかなんだのでも、世間から逃れようとしたものでもない。ひたすら荒い魂を鎮めるために出家したのであって、西行に一途な信仰心が認められないのはそのためであると記述されている。また、明恵上人の伝記の中にある西行の「我れ此の歌によりて法をえることあり」という詞は、そういうことを物語っていると示されている。

 

(写真:西行絵物語 出家思い立ち娘を蹴落とす義清 徳川美術館蔵、桜咲く八条の大上の王子 社殿の垣根に宇多を書きつける西行 万野美術館蔵)

 

 西行の作った和歌は二千を越えるが、三十一文字に託した言の葉は、西行の時代によって変化しているように思われる。義清の若き日の歌、出家遁世への決意、出家遁世後の行脚における歌、保元の乱にて崇徳院への歌、晩年に綴られた歌が有り、私は晩年に綴られた歌、また桜を描いた歌が好きである。  

 和歌については、全くの素人なので自分自身の感性でしか受け止めることはできないが、それでも伝わる物が有る。藤原定家、藤原家隆、寂蓮等により編纂された新古今和歌集があり、西行の歌も九十四首が歌集に収められているが、代表的な歌は含まれていない。三十一語の詞として虚構の世界を作り、その詞は激しくもあり、美しくもあり、優しくもある。西行の歌は、まさしくその詞で綴られている。『新古今集』は、あえて西行の無難な歌だけを納められたようでもある。「万葉」「古今」と並び三代か歌風の一つであるが、近代以降は正岡子規に厳しく罵倒され、また北原白秋は高く評価している。

 西行の逸話・伝説を集めた説話集として『撰集抄』『西行物語』があり鎌倉時代中後期に作成されたと言われている。『撰集抄』は江戸時代まで西行自身が著したと考えられてきたが、後人の仮詫であることが近年の研究により明白となり作者は不明である。また、『西行物語』は西行の出家から没年までの半生を伝記としてまとめられ、こちらも作者が不明である。『西行物語』伝本として物語の分量及び文章の類似する「広本系」「略本系」と江戸時代に多く版本された「采女本系」は広本系・略本系挿話とさらに独自の西行説話を有している。そして「永正本・寛永本系」が広本系・略本と采女本系の中間に位置し、以上のいずれにも属さない(島原図書館松平文庫所蔵本と学習院大学日本語日本文学研究所所蔵本)『西行物語』が存在する(引用:「蔡佩青:『西行物語』の方法」)。

  

 『西行物語』から西行の元服は十八歳ごろと考えられ、保延二年(1136)までと考えられる。また、当時の風習として元服と結婚が、ほぼ同時期に行われるため、この時期に結婚もしている。そして、『西行物語』には、出家遁世を決め帰宅した日に「四歳になる娘が縁に出むかえて袖にすがりついてきた。煩悩のきずなを断たなければと、娘を縁の下に蹴落とすと、娘は泣き悲しんだ。」と記載される娘がいたとされる。また、その男子二人、女子二人の子がもいたとする説もあるが定かではない。


 

 吉本孝明著『西行論』で『西行物語』、『西行一生涯草紙』、『西行物語絵詞』『西行上人発心記』をまとめ、出家までの様子を記載されており、非常に胸打つ場面で、それを引用させて頂く。「同じ北面につかえる親友の武士である佐藤左衛門尉憲康と、宣旨の使いを命じられて帰りがけ、明朝かならず落ち合う約束をして、その朝に憲康を誘いに行ってみると、門には大勢の物が騒ぎあっていた。家のなかでもさまざまに泣き悲しむ声がきこえて、殿は今宵突然に死んでしまったという。十九歳になる妻と八十何歳になる母親とが、声を惜しまず泣き悲しむのをみて、いよいよ人間の生の果敢なさと無上さを覚えて、出家遁世の決意をかためた。その歳の秋まではなかなか機会をとらえられなかったが、もう待つのもこれまで、と思い決めて帰宅すると、四歳になる娘が縁に出むかえて袖にすがりついてきた。煩悩のきずなを断たなければと、娘を縁の下に蹴落とすと、娘は泣き悲しんだ。妻は、かねてから男が出家しようとする気配を感じていたので、娘の鳴き悲しむのをみても、驚く気色をみせなかった。妻には、いろいろと言いわたしたが、妻は返事をしなかった。西行はさりとて思いとどまるべきことでもないので、心を強くして「もとどりを切って」持仏堂に投げ込んで、暁に年来知り合っていた嵯峨の奥の、聖の下に駆けつけて剃髪し、出家した」。親友の憲康は義清より二歳年上の二十七歳と記載されているが『尊卑分脈』には記載がなく、伝不明である。そして、保永六年(1140)十月、佐藤義清は出家して西行法師と号した(『百鍊抄』第六)。 ―続く