佐藤義清は元永元年(1118)に生まれ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた人物である。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経で監物{けんもつ:律令制において中務省に属した品官(ほんかん:出納を管理する職)}の娘であった。佐藤氏は義清の曽祖父公清の代から称し、祖父の佐藤季清は衛府の一つ近衛に属し、検非違使で有名で『佐藤判官季清記』を著している。そして、父康清と義清は白河法皇が創設した院の直属軍の北面の武士として仕えた。北面の武士は院御所の北面(北側の部屋)に詰め上皇の身辺の警衛、また御幸に共奉する。北面の武士として仕えるには家柄と弓馬の道は元より眉目秀麗で、詩歌管絃に堪能であると事を条件とされた。また、北面の武士は上北面と下北面の二つの詰所に分けられ、上北面はで、四・五位の諸大夫で多くは文官で最終的には公家に登用される者もおり、殿上に二間が詰所とされていた。下北面は殿上ではなく築地に沿う五間屋が詰所とされ、六位の武士が中心とされ、一般的に北面の武士は下北面の武士を指す。『中右記』五月二十二日条において元永元年(1118)、延暦寺の強訴を防ぐために賀茂河原に派遣された部隊だけでも「千余人」に達したという。
佐藤義清の父系は奈良時代の正二位左大臣を務めた藤原魚名である。藤原北家(ふじわらほっけ)は右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とし、房前の五男であった。家系では、藤原四家の一つ魚名流藤原氏である。佐藤氏は藤原秀郷を源流とする説もあるが、宝賀寿男氏の「藤原氏概説」『古樹紀之房間』で、秀郷の祖父である藤原豊沢と魚名の孫藤原藤成とが親子として繋がらないとし居住地、祭祀の傾向から毛野末流と見る。また『尊卑分脈』では、藤原前房の曾孫藤原兼清の子佐藤公康「佐藤太、住紀伊国」の記述に記されている。所領としては祖父の佐藤季清の代から紀伊国田仲荘(現和歌山県紀の川市、旧那賀郡内田竹房)を知行している。八歳の時に父、佐藤兼清が亡くなり、家督を若くして相続した。相続した紀伊国田仲荘は広大で経済的には裕福な家柄であったと考えられる。
母系については不明な点が多いが源清経については考証があり、文武に秀でた人物であったらしい。しかし、後白河法皇が著した『梁塵秘抄口伝集』に青墓宿(岐阜県大垣市)にいた今様の名手、傀儡女(かいらい:操り人形、人の手先となり思いのままに使われる女)の目井を京に移し、妾のように養い、情愛が冷めても晩年まで世話を見たときされる。目井の弟子で養女である傀儡女の乙前が後白河法皇に口伝でしたものをそのまま『梁塵秘抄口伝集』に書き留められたとされ、乙前は後白河法皇の今様の師でもあった。清経も今様のかなりの歌い手であったと言う。
佐藤義清は元永元年(1118)の生まれとされ、平清盛は永久六年(1118)一月十八日の生まれでこの年に改元されているので同じ年である。源義朝は保安四年(1123)の生まれで彼らとは五歳年下になる。そして、彼らは同じく北面の武士として叙任されていた。しかし、平清盛は大治四年(1129)十二歳で従五位相当の左兵衛佐に叙任されており、北面の武士として左兵衛佐として仕える。本来武士の任官は三等官の尉から始まり。二等官の左(従六位相当)から任じられるのは極めて異例であり、中御門宗忠は『中右記』大治四年(1129)正月二十四日条で「人耳目を驚かすか、言うに足らず」と驚愕している。
佐藤義清は『古今著聞集』の記述において祖父の代から徳大寺家に仕えており、十五・六歳で徳大寺実能に出仕し、天承の(1131~1132)期間であった。徳大寺家は正二威位権大納言藤原公実(きみざね)の四男実義が租流であり、待賢門院璋子の兄である。『長秋記』によると保元元年(1135)、義清十八歳において左兵衛尉に任じられ鳥羽院に北面の武士として奉仕した。平清盛は保延三年(1337)清盛の父忠盛が熊野本宮の造営の功により清盛は肥後守に任じられるまで、清盛と義清は二年ほど北面の武士として仕えているが、よくこの二人が同時期に北面の武士として仕えている為、友人のように取り扱われている。しかし、実際に当時の伊勢平氏の棟梁平忠盛の嫡男で左兵衛佐と左兵衛尉の二人に親交があったかどうかは定かではない。むしろ保元の乱において義清は崇徳天皇に近かったと考える。
佐藤義清は父方の血により武芸、特に弓馬に秀で、母方の血により歌に秀でた文武に長けた人物であった。しかし義清は保延六年(1140)、ニ十三歳で遁世出家した。『台記』の記事から逆算して通説とされている。通説では妻と娘を捨て出家遁世した。もうすでにお読みいただいた方は佐藤義清が西行であることは御存じであると思う。武士の身分を捨て遁世出家した西行は、その出家の理由、思想において述べる事は無かった。しかし、西行は詩歌を通じて語り、当時としては、どんな僧形にも属さない人物である。その出家した西行が保元・平治の乱、治承・寿永の乱、鎌倉幕府創設、奥州討伐を見聞し文治六年(1190)二月十六日に死去するまでを綴っていきたい。 ―続く