鎌倉散策 令和三年五月 連休の鎌倉 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 四月二十七日、鎌倉市も「まんえん防止等重点措置」の措置区域に指定された。期間は四月二十八日から五月十一日である。一日前に二十七日に市長メーセージとして四月二十七日に更新された。かなり急な話である。神奈川県は二十二日に「まんえん防止等重点措置」に要請、二十四日に発動された。当初は横浜市、川崎市であったが、ニ十六日に鎌倉市も追加された。予測はしていたが、急な発動で、もう少し市民の説明が必要であったと思う。また国においてもこの措置のホームステイの徹底の説明がなされていなかったと思う。五月一日、テレビの昼ナビで西村経済再生担当大臣が出演し、今回の「まんえん防止等重点措置」の質問に答えられ、対策の重要性を語られていた。本来、連休半ばでの出演よる説明であり、連休に入る前の人流を抑える事の説明が必要であり、今回の措置を国民に対して理解するように事前の丁寧な説明が必要だったと考える。

 

 二十九日、昭和の日は朝から雨、昨日に連休に読もうと思っていた本が届いたと言うので、とりあえず平日に明日に取りに行くことにした。現在、読んでいる本を一気に読んでしまう。

 

 三十日の夕方、本屋さんへ頼んでいた本を取りに夕方十六時に住居を出て鎌倉市中に出る。鎌倉街道は鎌倉市中から出る車でかなりの渋滞があり、横浜ナンバー以外、半数近くを占めていた。昨年の非常事態宣言の鎌倉駅と違い、何時も通りの人混みであった。昨日に何時もの行きつけのお店に電話をしたところ、今回アルコールの提供ができなく、時短の要請の為、ほとんどが休業するとの事であった。本を購入し、その足でバスに乗り住居えもどった。

 

 

 五月一日、建長寺の宝物展示、円覚寺の国宝舎利殿公開が有った為、朝早くから人込みを避け訪ねた。やはり人出が少なく、展示室には一・二名で見る事が出来た。宝勿展示内容は開山蘭渓道隆像、円鑑、孟宗竹林図、龍王図である。蘭渓道隆像、はやはり素晴らしい像であるが、円鑑は五センチほどで正面は鑑様で、裏面の梅、川、月を描いた文様があるが、見る事が出来なかった。月は水晶で形成した物を漆等と思われる接着物で固められている。円観が納められている厨子の精巧さの方に引かれた。そして特別御朱印の、開山『大覚禅師』、円鑑由来『聖観世音』二首を戴いて建長寺を後にした。

  

 円覚寺では国宝舎利殿の公開があり、円覚寺に向かった。いつ見ても杮葺きの屋根の勾配、軒の反りの美しさ、柱の細い事が舎利殿の特徴である。軒下に広がる扇状の扇垂木は屋根の勾配と反りを作り出す非常に特殊な技術である。「弓欄間」も特徴の一つである。御朱印を戴き舎利殿を後にした。

  

 龍隠庵に向かう階段を上がる。ここまで登って来る拝観者は数少ないが、円覚寺境内を見渡せる絶好の庵である。御住職は忙しく、不在がほとんどであるが、この龍隠庵からの景観を見るのが楽しみで訪れると、今日はたまたまなのか御住職がおられた。お正月に「大般若祈祷』のお札を送って頂いたお礼を述べた。本堂に上げて頂き、マスク着用で二メートルほど開けて、話をすることが出来た。今、ワクチンで一般の人でも知るようになった製薬会社に勤めていた私は、若干の医療知識等を持つため現在のコロナウイルス感染症の状況と感染対策について話した。そして、先月行われた鎌倉市の市会議員の選挙の事。また、昔から疫病等が流行る時、昔の人達はどの様にそれを抑えて来たのかを話す。神道では伊勢参り、仏教においては阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来にすがったのだろう。そこには、倫理と秩序と言うものが存在し、倫理と秩序を担う役割の一つとして宗教における社や寺院の存在があったと考える。そう言った事を話しながら、これから前向きな倫理と秩序、そして人と心に余裕を持たせる宗教特に禅語など大切になって来るのではないかと話した。

 

京都や奈良の寺院に比べると鎌倉・北鎌倉の寺院は、比較的に見て人で賑わう事も少なく、平成の次期は拝観料も安く鎌倉・北鎌倉の寺院を巡る事が出来た。最近は何処もが拝観料を上げ、十年ほど前に明月院などが五百円に上げ、建長寺もいつの間にか同じく五百円になっていた。そして円覚寺も今月からだろうか三百円から五百円になった。この信仰を求め集う場所が寺院であるならば、集まりやすい環境が必要になるのではないだろうか。御住職も嘆いておられた。このコロナウイルス感染症の蔓延る中、人の心は変化している。格差拡大と個人主義の拡大、そして終息しても今までとは違う社会になるだろう。コロナ対策においての経済負担は、この格差拡大と個人主義の拡大をより一層加速させるだろう。殺伐とした社会において、手を合わせ、心静かに、先祖に感謝、家族に感謝して今を生きていることに感謝できる空間が必要である。

 

 禅語の中に「一期一会(いちごいちえ)」と云うよく知られた言葉があるが、人との出会いという事を大切に、丁寧に誠意をもって接する事で、日常の喜びと充実感が満ちて来る。少し違うが、人の生活において人との出会いと言う御縁は大切にしていかなければならない。しかし、去る事もあるだろう。それは御縁がなかったものと受け止め、新しく出会う御縁という物を大切にしていきたい。「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」と云う言葉は、どんな日でも毎日が新鮮で最高に好い日だと思う事で、かけがえのない日と思い過ごすことを言う。「惺々着(せいせいじゃく)」と云う言葉は、日々同じことの繰り返しで生きるのではなく、目を覚まして自分を見失うことなく生きる事であり、目を覚ませと言う言葉である。最後に「和敬清寂(わけいせいじゃく)」は相手を敬えば和を築くことが出来、より良い清々しい関係となる事を云う言葉である。禅宗の寺院に出掛け禅語を一つ覚えるのも自身の豊かさに繋がり、そう言った空間が必要なのである。

 

 御住職とほぼ一時間、たわいもない話しをして、寺を後にした。御住職はいつも階段の降り口まで出て送ってくれる。ありがたい事だ。もう午後の一時近くになっており、昼時に伺ったことを申し訳なく思った。山門をくぐると大勢の人が境内に入ろうと駆けつけており、団体客を先導する人が人数確認をしていた。そして、住居に戻った。この連休中、読書に明け暮れ、また、ため込んでいた映画のビデオを見る毎日で終わった。倫理、秩序と人を敬う心を考えさせてくれた連休となった。