(写真:ウィキペデイアより吉野山 開花時期の景観。山上から金峯山寺方面)
西行は出家後、洛外にて草庵を結び、康治元年(1142)、待賢門院が仁和寺法金剛院にて出家され転用元年(1144)、一度目の東北・陸奥に旅立っている。久安五年(1149)三十二歳で高野山の草庵を結び、しばしば吉野に入っている。この時、歴史が動き出し、その背景を説明すると、保永六年(1140)十月、佐藤義清は出家した翌年の永治元年(1141)十二月、崇徳上皇・兵衛佐局の養子としてわずか三歳で近衛天皇が即位した。そして鳥羽法皇として院政を続け崩御した後、保元元年(1156)七月八日保元の乱がおこっている。
(写真:ウィキペデイアより吉野山奥千本『西行庵』と金峯山寺蔵王堂)
白河院が崩御し、鳥羽上皇が院政を始め保安四年(1123)二月十九日第一皇子、数え年五歳の崇徳天皇が即位した。保安六年(1140)九月二日に藤原聖子・兵衛佐局が崇徳天皇の第一子・重仁親王を生む。この二人は円満な夫婦関係が続いたとされるが、兵衛佐局は身分が低い為に重仁親王は皇位継承権を持たなかったらしい。鳥羽上皇は藤原長実の女、藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延五年(1139)五月十八日体仁親王を生む。保安六年(1140)六月二十七日、生後一ヶ月ほどの体仁親王を即位させるため譲位を迫り、崇徳上皇・に兵衛佐局の養子として永治元年(1141)十二月、わずか三歳で近衛天皇が即位した。『愚管抄』によれば崇徳天皇は穏やかに「そうするのが良かろうと仰せ永治元年十二月にお譲りになった。近衛天皇は既に保延五年(1139)八月に東宮になっておられた。その後上譲位の宣命に、崇徳天皇はこの絵天皇のことを皇太子と書いてあると思っておいでになったのに、皇太弟と書いてあったので、これはどうした事か、これでは近衛天皇の父として院政を行う事が出来ないではないかと、鳥羽上皇に対して恨みを抱かれた。」と慈円は記載している。即位した近衛天皇は久寿二年(1155)七月二十三日に十七歳で崩御した。崇徳院の皇子、重仁親王は美福門院の養子となっており後継天皇として有力であったが、もう一人の養子、守人王を立てるため、その中継ぎとして守人王の父、雅仁親王(後白河天皇)、即位する事になった。
(写真:京都御所)
保元の乱は皇位継承問題と摂関家の内紛が朝廷を後白河天皇と崇徳上皇に分かれ衝突した内紛である。この朝廷の内紛を解決したのは武士の力によるものでその後武士の存在感が増して、後の武家政権として鎌倉幕府が創設される要因になった。崇徳上皇、後白河天皇は、父は鳥羽天皇で母は藤原璋子(待賢門院)の第一皇子と第四皇子として生まれる。崇徳上皇は穏やかな性格を示され、後白河天皇は遊興に著しく、後に平治の乱において平家が滅び源頼朝により鎌倉幕府を創設させ、頼朝から大天狗と称される。
(写真:京都御所)
保元元年(1156)七月二日に鳥羽天皇が崩御し、葬儀は藤原公教と信西によりに執行された。この情勢で信西が主導権を握り中継ぎの天皇として後白河天皇を即位させた。崇徳上皇が藤原頼長と同心して軍兵を出し皇位を奪うと京中に噂が立つ。『兵範記』によると七月八日、藤原忠実・頼長父子が諸国の荘園から軍兵を集めたとして、綸旨において諸国に発し軍兵の集積を停止させた。摂関家の氏長者を象徴する三条殿を没収知させた。京中の不穏な情勢において崇徳上皇は鴨川の東白河御所に入ると、挙兵したとみなされた。崇徳上皇には藤原頼長、源為義と、その子為朝、平忠正がつき、為義は奇襲を提案するが頼長により拒否された。天皇御所の高松殿の後白河天皇には、源義朝、平清盛、源頼政らがつき、軍勢で膨れ上がった。七月十一日、義朝の発案により、夜討ちがおこなわれ、三方から鴨川を渡り攻寄る天皇方の軍に上皇方の義朝の父為朝、平忠正がそれに応じ、源為朝の奮戦もむなしく白河御所は火を放たれ焼け落ちた。上皇・頼長は敗北し逐電して仁和寺に逃れたが、頼長は途中で流れ矢にあたり死去している。乱終結後に義朝は父為義の赦免を願い出ていたが、清盛が叔父の平忠正を斬首したことにより、許されず為義は義朝により斬首された。保元の乱は、皇室、藤原氏、源氏、平氏が親兄弟を敵として戦った戦乱である。もし、この戦乱に佐藤義清がいたならば、崇徳院についたであろう。そして、義清、為朝は当世の弓の名手であった。義清はこの騒乱を一番恐れ、出家遁世を選択した要因であったのではないだろうか。仁和寺で剃髪された崇徳帝の下に西行は参じている。そして、崇徳上皇は讃岐に配流となった。
(写真:京都仁和寺)
永治元年(1141)以降に藤原俊成が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ(三家集)とされる。
最上川つなでひくともいなふねの しばしがほどはいかりおろさむ ―最上川では上流へ析弘遡行させるべく稲舟を押しなべて引っ張っている事だが、その稲舟の「いな」のように、しばらくは、このままでお前の願いも拒否しよう。船が怒りをおろし動かないように。
対して西行は次の変化を読んだ。
強くひく綱手とみせよ最上川 その稲舟のいかりをさめて ―最上川の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをお納めくださいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧ください(私の切なるおねがいをおききとどけください)。
崇徳院は八月十日讃岐に着き、松山の御堂からすぐの四度郡直島に移され、国司秀幸のはからいで四度の道場辺り、鼓の岡に住居をしつらえた。『保元物語』では後世菩提の為に、自筆(血書ともされる)で五部の大乗経を書写し安楽寿院の鳥羽陵へ納めることを希望されたが、拒否され後白河天皇の側近信西に入道により突っ返されたのである。崇徳院は弟の後白河院の処置を恨みながら、三悪道に堕ちて、大魔王となり、子々孫々まで皇室に祟りなさんと、その後は爪も切らず、髪も剃らず、悪鬼の形相となり指を食いちぎり、その血で経巻の奥に誓詞を書いたとされる。 ―続く