鎌倉散策 中世の道 東山道、二 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 東山道は奈良期までは陸奥国府の多賀城までが基幹道として推測され、平安期に入ると北上し多賀国府から平泉、衣川館に、また出羽国府に至ったと考えられる。また、平安後期には、さらに陣岡、厨川柵、そして出羽国においては秋田城まで北上し、各支路が作られ、東山道が形成されていったと考える。それは蝦夷との戦いをうかがわせる。

(写真:ウィキペデイアより)

 東山道に関する合戦の歴史を見ていくと、平安期には平将門の乱にて坂東八箇国の動乱が起こり、『本朝文粋』に、天慶二年(939)正月十一日平将門の追補を東海道・東山道諸国司に命じ太政官符が収録され、東山道は軍事道路として活用されており、常陸の鬼怒川(香取内海地域)で起こり東山道に属する下野・上野、さらに利根川(江戸内海)地域に軍を進め、武蔵道を通り武蔵国府、そして相模国府まで一気に征服している。また、東海道に属する相模から武蔵・下総・上総・安房の坂東八ヵ国を支配下に収め、坂東国家を短期間ながら形成した事は日本史にとって意義は大きい。後に勝者となった武蔵介源経基、常陸大掾平貞盛、下野押領使藤原秀郷らであり、藤原秀郷は野口実著『坂東武士団の成立と発展』の中で『吾妻鏡』や所系図等により鎮守府将軍に任じられたとされている。その後、藤原秀郷の子孫は将門の乱にての獲得した坂東北部の権益の継承、特に信濃・上野・下野・陸奥を結ぶ東山道や東海道を結ぶ東山道武蔵道の支配を目指す紛争であったと考える。

 

 安和二年(969)三月二十五日、安和の変等を起こし、豪族間の紛争を続けた。和安の変において武蔵国にかかわりがあった検非違使源満仲が秀郷の子、千春を禁獄させた。その結果藤原千春の勢力は排除され、秀郷流藤原氏は中央での勢力を縮小させ変わって摂関家と結びついた清和源氏が京都での勢力を伸ばすことになる。

 永承六年(1051)阿部頼義追討の為、源頼義を陸奥守とし前九年の合戦が始まる。源頼義は相模守に任じられており前相模守の平直方の娘婿になり鎌倉の所領及び相模の郎等(桓武平氏)を譲り渡している為、相模・武蔵の武士を集結させ東海道で常陸まで、東山道を使用し多賀城に至っている。

 

(写真:高橋一樹著『動乱の東国史2.東国武士団と鎌倉幕府』より)

鎌倉時代初期に源頼朝が、鎌倉から大軍を率いて奥州平泉の藤原氏を滅ぼした奥州征伐の際に東山道が使用された。『吾妻鏡』文治五年(1189)七月十七日条、「東海道の大将千葉介常胤・八田右衛門の条知家はそれぞれ一族らと常陸・下総を…大手軍と合流せよ。北陸道の大将比企藤四郎能員・宇佐美平治実政等は下道を経て…越後から出羽国の念種関(ねずがせき)に出て合戦を告げよ。頼朝は大手軍として中路より下向される。先陣は畠山次郎重忠とする」と記載がある。それ以外で幕府が実際に軍事目的で使用したという記録はほとんどない。

(写真:河合康著『鎌倉街道上道と東国武士団』より
 元弘三年(1333年)の鎌倉幕府滅亡時、朝廷方の新田義貞が上道を通って鎌倉に侵攻した時、武蔵大路に逆に利用された。しかし、中世成立期においての通商・軍事における幹線道の重要地点が常陸国において中世成立期における東海道と東山道の東の交わる地点として重要地点であった。また西の美濃にある青墓宿は東山道、東海道の交わる地点として重要地点となっている。 また、平安期には東山道が奥州での金銀の発掘により、その産出や食料、そして良馬(駿馬)の産地としてその運搬にも使用されだす。平安京(京都)との間の運脚(運搬人夫)の日数(延喜式による)は以下の通り。括弧内は陸路の行程日数で、前者が上り(平安京方面)で後者が下り。上りは調(律令制での租税の一つ)と庸(人頭税の一種で、衛士や采女の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった)とともに旅費にあたるものも携行したため、下りの約二倍の日数を要したとされる。

東山道の行程日程を見ると:近江国府(1日/0.5日)、美濃国府(4日/2日)、信濃国府(21日/10日)、上野国府(29日/14日)、下野国府(34日/17日)、陸奥国府(50日/25日)。支路:飛騨国府(14日/7日)。北陸道:出羽国府(47日/24日)であった。

東山道は江戸時代になると、江戸を中心とする放物線状に伸びる五街道が整備され、幹線道路としての東海道・甲州街道、東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編される。 ―完