鎌倉散策 中世の道 東山道、一 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 東山道(とうさんどう)は五機七道の一つで、本州内陸部の道であった。都が置かれた摂津国(難波宮)・大和国(平城京)・山城国(平安京)から近江国を通り陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。往時の読み方については、「とうさんどう」の他にも「とうせんどう」「ひがしやまみち」「ひがしのやまみち」「ひがしやまのみち」「ひがしのやまのみち」そして「やまのみち」などの諸説がある。

 奈良時代に平城京の一部、西大路の敷地であった場所から発掘された木灌に「東巽道」と書かれており、巽を撰の略字とみなして東山道=東撰道であったとして、「とうせんどう」が正しい読みであるとする説がある。現代ではあまり使われないが、東山道の貫く国や地域を東山地域とよぶことがある。関東地方と山梨県と長野県をあわせて「関東・東山」などのように使う。

(写真:ウィキペデイアより引用)

 律令時代に設けられた七道の中で中路とされ、東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で、現在の東北地方へ至る政治・軍事面で重要な最短距離路だった。陸奥国府(多賀城)からはさらに北へ鎮守府(北上盆地内)まで小路が伸びていた。東山道には、駅伝制により三十里(約16 km)ごとに駅馬(はゆま)十頭を備えた駅家(うまや)が置かれていた。

  東山道は延喜式に依れば行政区として近江国(滋賀県)、美濃国・飛騨国(岐阜県)、信濃国(長野県)、上野国(群馬県)、下野国(栃木県)、陸奥国(福島見・宮城県・岩手県・青森県)、出羽国(山形県・秋田県)に渡る交通路である。日本本州の中央部を縦貫する基幹道路としての特徴があり、美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから飛騨国への支路あった。信濃国府から越後国府を経て北陸道 を結ぶ支路、また信濃国府から甲斐国府、相模国府・東海道を結ぶ支路東山道武蔵大路。上野国府と下野国府の中間地の新田駅と足利駅から東山道武蔵道の武蔵国府を経て鎌倉への支路。そして、出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。それぞれが分岐し、太平洋側と日本海側の国府を繋ぐ支路を有していた。

(写真:埼玉県吉見町奈良時代の東山道より引用)

 陸奥国において律令体制の奈良期においては租庸調を納める人々、防人たちの兵、官人、国司が往来した東国統治において整備された重要な基幹道である。自然発生的にできた道ではなく、朝廷が蝦夷政策遂行において情報の伝達、兵士や官人の移動、それに伴う物資等の搬送を迅速に行う為に造られた官道である。この時期は多賀城辺りまでと考えられる。東山道は近江国勢多駅を起点に美濃国には入り美濃国坂本駅から信濃坂(神坂峠)を超え阿智駅(下伊那郡阿智村駒場)に下り伊那から天竜川北上し育良(いから:飯田市殿岡と推定)・賢錐(かたぎり:上伊那郡中村村)・宮田(みやだ:上伊那郡宮田村)・深沢駅家(上伊那郡箕輪牒霜古田と推定)を経て、松本の錦織駅(にしごり:上水内郡四賀村の錦辺と推定)から保福寺峠(標高1345メートル)を越えて浦野駅(小県郡青木村の石岡地籍と推定)を通る。上田の亘理(わたり:上田市西部諏訪辺集落近く)を過ぎ、千曲川を渡る。長倉駅家(北佐久郡軽井沢町)を経て、現在の小諸市から碓氷峠(標高九五八メートル、を越え上野国に入る行程であった。碓氷峠は『日本書紀』に日本武尊が東国から信濃に入る際「碓日坂(うすいのさか)にいたり、碓日嶺に登って弟橘媛をしのび、吾嬬(あずま)はや」と言ったと記載される。中路駅路には、原則として三十里(十六キロ)ごとに駅家を置く事が定められており、駅馬の数も十疋と定められていた。保福寺峠は難所であったため錦織駅と浦野駅の駅馬は十五匹と定められている。駅馬や伝馬は官人の交通機関であり、朝廷の文書等の逓送(貞宗)を送る通信手段として用いられ、一般の旅人が利用することはできなかった。下野国と東山道の行程は足利駅家(足利郡)、三鴨駅家(安蘇郡)、田部駅家(都賀郡)、衣川駅家(河内郡)、新田駅家(塩谷郡)、磐上駅家(那須郡)、黒川駅家(那須郡)を経て陸奥国に入っている。陸奥国、国府の多賀城からさらに北の鎮守府(北上盆地内)までの小路が伸びていた。

 東山道の建設については誰が計画してそれを実行したかほとんどわかっていないが、断片的な記録として大宝二年(702)十二月十日『続日本紀』に、初めて「初めて美濃の国に岐蘇(きそ)の山道を開く」との記録がある。この記述が示す地域の経路は、美濃国の坂本駅(現・中津川市)から神坂峠を越え伊那谷に至るルートを取っている。また『続日本紀』には、天平九年(737)に東山道の北端にあたる陸奥国から出羽国に通じる新道の建設工事の様子を示す記述も残されており、陸奥国の鎮守府将軍である大野東人が軍隊を率いて、色麻柵(しかまのき、現・宮城県加美町)から急峻な奥羽山脈を越えて、出羽国最上郡玉野(現・山形県尾花沢市)を経て、北の比羅保許山(ひらほこやま、現・山形県金山町付近)まで至る百六十里の道を開発したとされる。

(写真:『東国武士動乱の東国史1平将門と東国武士団』 東海道と東山道より引用)

 武蔵国は奈良時代当初は東山道に属し、東山道の枝道として東山道武蔵路が設けられた。その経路は上野国新田より南下し武蔵国府(現・府中市)に至り、戻って下野国足利へ進む行程(またはこの逆)が東山道の旅程であった。 ―続く