四月八日、極楽寺の本尊清凉寺式釈迦如来立像の開扉が行われ拝見させて頂くため訪れた。この日は晴天に恵まれ、散策にはちょうど良い気候で、極楽寺に午前十一時前に着くと、かなりの人が拝観に来られていた。例年、四月七~九日、極楽寺尊開扉が行われ、秘仏の清凉寺式釈迦如来立像を特別開扉される。昨年は中止コロナ感染症のため中止となった。今年はコロナ対策として建物内には入ることはできないが、建物外からの参拝が可能との事であった。
(写真:極楽寺の井)
この日に出掛けたのは、八日の日は奥の院にある開山の忍性上人の墓、五輪塔(忍性塔)も公開される。また、降誕会・灌仏会が行われ。仏陀誕生の時に天から甘露の雨が降ったという伝説にちなみ、誕生仏に甘茶を灌(そそ)ぎ誕生を祝う行事である。境内に甘茶の木が植えられ、その木から作った甘茶が振る舞われる。始めて飲んでみたが微糖以上に甘く感じられお茶であった。
(写真:釈迦像と子育て地蔵、ウィキペディアより忍性像)
本堂の平安期の作で国の重要文化財の不動明王像も素晴らしく、またその右奥に忍性坐像と左奥に叡尊坐像が安置されている。宝物館には、鎌倉期の作で国の重要文化財の転法輪を結ぶ数少ない釈迦如来像である本尊清凉寺式釈迦如来立像を拝観する事が出来、手を合わせさせて頂いた。両横に並ぶ十大弟子像の阿那律(あなりつ)立像と羅睺羅(らごら)像も貴重な像である。また、奥の院にある開山の忍性上人の墓、五輪塔(忍性塔)が公開される。残念であるが写真撮影禁止であった。
(写真:極楽寺 本堂と宝物殿)
極楽寺は、奈良の南都六宗の一つであり、真言宗の戒律を再興させる西大寺の叡尊の高弟である忍性が開基とされる真言律宗の寺院である。
宗派:真言律宗。 山号寺号:霊鷲山感応院極楽寺。 開山忍性菩薩。 開基:北条重時。本尊:本尊清凉寺式釈迦如来立像。 寺宝:京都清凉寺の釈迦如来像を模した本尊木造釈迦如来像はが。本尊脇侍の木像十大弟子立像(鎌倉期作)。木造不動明王座像(国重文)。木造文殊菩薩像。木造忍性菩薩像。密教法具(国重文)等。
(写真:極楽寺千服茶臼と製薬鉢、奥の院五輪塔の横に忍性とがあるが撮影禁止)
(写真:奈良西大寺総門と本堂)
極楽寺は、もとをたどれば、正嘉年間(1257から59)深沢に草創され、阿弥陀如来像を安置し、極楽寺と称された。開山、開基は不明。正元元年(1259)に北条義時の三男重時が現在の地に再建されたと伝わる。奈良から東国に布教のため訪れていた忍性は、弘長元年(1261)六代執権北条長時と業時(なりとき)の兄弟により多宝寺(廃寺になり現在の妙伝院あたりと考えられる)の住持であった。文永四年(1267)に現在の極楽寺に開山として迎えられた。五代執権北条時頼の病気治癒の祈祷の為と伝えられている。忍性は真言律宗の奈良西大寺の叡尊の一番弟子とされ、聖徳太子、文殊菩薩の信仰を仰ぎ、聖徳太子が隋に倣って四天王寺(現大阪市天王寺区:日本で地名として悲田院町が唯一残る)を建立した際に四箇院を建てたと伝わる。
(写真:四天王寺)
その伝承から、鎌倉の極楽寺において仏教での慈悲の思想に基づき貧しい人、孤児、病人を救済する施設の四箇院と同様な施設の施薬院、悲田院、施益院、福田院を作り、都市鎌倉の福祉活動を行い、特にハンセン病患者の救済には奈良の般若寺の住持の頃から乗り出している。「医王如来」として崇められた。忍性の救済活動は奈良西大寺にいる頃から行われ日本の社会福祉の先駆者ともいえる。馬などの病気治療の為、馬病屋までも作られており、境内に残る製薬鉢や千服茶臼がその当時をしのばせている。忍性は嘉暦元年(1303)極楽寺において八十七歳で死去。遺言で奈良の竹林寺と額安寺に分骨された。
(写真:奈良 竹林寺本堂と忍性五輪塔)
鎌倉幕府滅亡後も南北朝時代は国家安泰を祈る勅願所として寺格を保ち後醍醐天皇からは嘉暦三年(1328)菩薩号を追贈され、「忍性菩薩」となった。寺院としては自然災害や火事に見舞われて室町期には衰退していく。これは、あまりにも鎌倉幕府との密接な関係があったことも要因に挙げられる。鎌倉中期の北条時宗との関係により、土木、架橋、和賀江島の港湾管理等を行い、利権および税の徴収を行う事で広大な寺領を得た。これらにより、費用の掛かる社会福祉活動を可能にしたとされる。鎌倉幕府に代わり社会福祉活動を行った点、そして僧侶としてその活動を行った点、忍性の功績は大きい。
宝物館は、春の四月二十五日から五月二十五日。秋の十月二十五日から十一月二十五日(各週、火、木、土、日)で宝物館に入れるようである。
(写真:奈良 額安寺本堂と忍性五輪塔)