鎌倉散策 足利尊氏騎馬武者像は高師直ではないか | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

(写真:ウィキペディアより京都国立博物館蔵騎馬武者像)

 護寺三像野像主名は「伝頼朝像」が足利尊直義、「伝平重盛像」が足利尊氏、「伝藤原光能象」が足利義詮とされ、制作時期も南北朝時代の十四世紀中頃と発表された事により、現在は、この新説が肯定されつつある。そして昔は足利尊氏像として考えられていた像が、今は歴史の教科書からも消え騎馬武者像として記載される。中高生の頃、この絵を歴史の教科書で見るたび黒毛の馬に乗り、左手に手綱を引き、右手で抜身の太刀を肩にかける尊氏像は、鎌倉末期の悪党・有徳人に見え征夷大将軍の足利尊氏像には見えなかった。原本は現在、京都国立博物館所蔵「足利尊氏像(騎馬武者像)」として重要文化財である。また、江戸時代中期の陸奥白川藩三代藩主「松平定信」が編纂した博物図録集『集古十種(しゅうごじゅつしゅう)』の中で足利尊氏の肖像画として描かれた絵の写しがある。

  

(写真:ウィキペディアより神護寺三像野像「伝頼朝像」足利尊直義、「伝平重盛像」足利尊氏、「伝藤原光能象」足利義詮)

疑問点は四点あげられる。

・肖像画の人物像の頭上に室町幕府二代将軍足利義詮の花押があり、父であり、前将軍の頭上に花押を推すことは有りえない事である。足利義詮が花押を記すことで義詮より身分的に低いものと考えられる。

・肖像画の四万手(塩手)という馬具の留め金部分と目貫(めぬき)と言われる太刀の柄の部分についている家紋が、足利家の家紋「縦二引両紋」もしくは「桐紋」ではなく「輪違門」である事。

・肖像画の騎乗する馬が黒毛の馬であり、尊氏の愛馬とは違う。尊氏が愛用していた馬は栗毛の馬であったとされる。

・総髪(全髪を後ろへなでつけた髪型)の乱れや、右手で抜身の太刀を肩にかける姿、背おった矢の六本のうち一本が折れている像に将軍像として疑問を点があげられる。

 

 この最後の「総髪の乱れ」等は歴史好きな人は、逆にこれこそ尊氏であると言われることもある。建武二年(1335)七月十三日、北条高時の遺児、北条時行と保護していた諏訪大社の祠官、諏訪頼重共に信濃国で挙兵して中先代の乱が起こった。その挙兵において五万騎もの兵が集まったとされる。足利直義は武蔵国町田村井出の沢(現東京と町田市本町田)の合戦で迎え撃つが、敗退し、鎌倉を放棄し、三河国矢作(愛知県岡崎市)へと逃れた。足利尊氏は、後醍醐天皇に討伐の宣旨と征夷大将軍に就くことを願うが、後醍醐帝の許しを得ないまま弟直義のいる三河国矢作に向かう。そして、北条時行を撃破する。その後、鎌倉に留まり後醍醐帝の即刻の上洛に答えなかった。『太平記』には尊氏が帝に背き出陣したことを悔い、髪の本結を切って出家・隠遁の意を示したと記さている。弟の直義と上杉重能が論旨の偽作を行い隠遁しても、その罪は許さず、尊氏・直義を誅伐せよとの旨の綸旨を尊氏に見せ、「さては一門の浮沈この時にて候ける」と言って京に向かい出陣を決めた。本結を切ってしまったため出陣の際には総髪が乱れたに違いない。しかし『太平記』の続きには、いったん、本結まで切った尊氏がついに起って、道服(僧衣)を錦の直垂に着替えると鎌倉中の軍勢が「一束切(いっそくぎり)」と言う髪を短くして尊氏の髪の異様さをまぎらわせようとしたと記載されている。以前は『太平記』の言う「一束切」と符合し尊氏の隠遁の意をひるがえして起こったこの時の出陣を記念すべく描かれたものであるまいか、この髪型以上の物は無いであろうと佐藤進一氏『日本の歴史 九 南北朝の動乱』で述べられている。しかし、「一束切」が尊氏の家臣全てが行ったため尊氏と断定することは出来ない。

 

(写真:ウィキペディアより騎馬武者像と広島県浄土寺「絹本著色足利尊氏像)

 その騎馬武者像の人物は誰なのかという事になるが、現在で有力視されているのが、尊氏の執事・婆娑羅(伝統的な秩序・慣例を無視し実力主義的な行動を行う者)大名の代表格、高師直(こうもろなお)である。描かれた黒毛の馬に乗り、左手に手綱を引き、右手で抜身の太刀を肩にかける姿は、まさに婆娑羅を思い描く。また、高氏の家紋は「輪違門」であり、また、師直の嫡子である師詮や師直の猶子師冬説も唱えられている。しかし、高師直の生誕は不明であり、足利尊氏は嘉元三年(1305)の生まれで中先代の乱が起こった時が建武二年(1335)であり、尊氏三十歳の時である。高師直は、足利直義とは対立が激しく、広義において観応の擾乱で尊氏・高師直勢は正平六年/観応三年(1352)二月に入ると京都を目指すが、直義勢は二月十七日には尊氏を摂津国打出浜まで追い込み合戦にて勝利した。師直は最終的に二十六日、京都への護送中に摂津武庫川(現兵庫県西宮市と伊丹市の境)で上杉能憲により一族共に誅殺されている。この像は師直が足利義詮に忠誠の意を表すために描かれたのかもしれない。また、足利義詮は後に花押を記した可能性も考えられる。高師詮が文和二年/正平八年(1353)六月十二日、丹波西山義峰の合戦で自害して果てている。享年は不明だが歴史的背景を考えるとこの時には、二十代前後と推測されるため、騎馬武者像の像主名は高師直の可能性が高い。

室町時代以前に書かれた足利尊氏像は広島県浄土寺が所蔵している「絹紋著色足利尊氏将軍像」が知られている。また、尊氏の嫡子である二代将軍、義詮が十四世紀に京都の東岩蔵寺に奉納されたとされ、現在大分県安国寺の「木像足利尊氏坐像」がある。

 

(写真:ウィキペディアより大分県安国寺「木像足利尊氏像と個所像「足利尊氏像」)

 平成二十九年(2017)に新しく足利尊氏像が発見された。個人所蔵で縦八十八・五センチ、横三十八・五センチ軸装され、正装し着座する尊氏が描かれている。情報には十数行にわたり画中の人物の来歴を綴った文章に尊氏を示す「長寿院殿」(北鎌倉の尊氏邸であった場所に長寿院を建立している)が残され、尊氏の業績として全国六十六州に安国寺と利生塔を建立した旨の記載されている。