鎌倉散策 神護寺三像、九「伝源頼朝像」夢窓国師による尊氏と直義 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

(写真:鎌倉 瑞泉寺)

 夢窓疎石が足利尊氏と直義を語ったものが残されており、玉村竹二著『窓国師』(平楽寺書店、1958年、一七三項)に次のような記述がある。「弟の直義の方は、多少趣を異にしている。直義は骨の髄から母方上杉氏の歌風を受けたらしく、その宗教意識においてもよほどその影響を受けているようで、仏光(無学祖元)・仏国(高峰顕日:こうほうけんにち)両国師の宗風に帰依している意識が窺われ、その受戒師は、尊氏と共に仏光寺派下の人であったらしいことは前述したごとくであるが、一際目立って、鎌倉的なものえの郷愁と憧憬が強かったらしく、またその資質も怜悧(れいり:頭がよく、りこうなこと)であったと見え、よく鎌倉末の高踏的な禅宗及びこれに附帯する中国の貴族文化を理解し鑑賞し玩弄(がんろう:もてあそぶこと)し得たらしく、鎌倉の上層武士に伍して、そん色のない教養を備えたかに見える」と黒田氏が引用されている。

 

(写真:鎌倉 瑞泉寺の地蔵尊)

 私が調べた尊氏と直義の違いは、松尾剛次著『中世鎌倉市を歩く』で、「夢窓疎石は、尊氏の性格について三つの徳があったと言う。第一に戦に際して度胸が据わっていて、命が危ない時も恐れる事は無かった。第二に慈悲の心強く寛容であった。第三に気前が非常によくて、部下に物惜しみせずに武具や馬を与えた」と述べられている。

 

(写真:ウィキペディアより夢窓疎石像と夢窓疎石墨跡 二行書)

 『吾妻鏡』に鎌倉時代の宝治元(1247)頃の武家社会では「八朔贈答(はっさくぞうとう)」と言う風習が始まり、鎌倉中期では盛んになった。将軍への贈り物は良好間(執権。連署)の他は禁止されている。「八日朔日」から来た風習で、旧暦八月一日に本格的な収穫を前に「豊作祈願」と「田の実りをお供えする」と言う行事が各地で様々な行事として行われた。「八朔節供」「田の実の節供」と呼ばれ今も残っている。「八朔贈答」は「豊作祈願の一方「田の実」が「頼み」になり八朔には様々な贈答の風習が生まれたとされる。この室町期に入り、この風習は残されていたと考えられる。 『梅松論』下で夢窓疎石は足利尊氏への贈り物について「八月一日は諸人の進物が数もわからないほど多く、それを全て人に与えてしまい、夕方になれば、何があったかも覚えていなかった」と記されている。 室町期では「八朔贈答」の返礼も慣例化していた。しかし、直義は「八朔贈答」に対し批判的で、(「光明院宸記」康永四年八月一日条で、直義は八朔の贈り物を受けなかったと言う。また「光明院宸記」に光明天皇もこの行事を批判しており、「近頃のように天下は不安定で、かつ世の中の困窮の民が植えているというのに、財力の限りをもって贈り物をして、どうして民を富ませることが出来ようか」と日記に書かれている。尊氏は親分肌の武将であり、直義は能吏(のうり:事務処理に優れた才能を示す役人)的な人物であった。

 

 

(写真:鎌倉 光則寺の海棠)

 佐藤進一著の『南北朝の動乱』(中央文庫、1978年、二二四~(二二六項)に直義の人柄、逸話について「禅僧たちが直義の邸宅を辞去する際、一人のおくれ出た雪村には着物を進めるものを進めるものが無かったところ直義が自らは着物を取ってすすめた」、「ゲニゲニシク(誠実で)偽レル御色ナシというのが当時の定評だったしい」記載されている。また、佐藤氏の『南北朝の動乱』に「仏教の教理について直義が質問し、禅僧の夢窓が答えた、その対話を筆記した『夢中問答』という本がある。それを読むと、直義の教理の知識が相当なものであると同時に、彼が理論的な思考を発つ飛ぶ人間であったことが分かる。」「直義は論理的な考え方の持ち主であり、自精神に富み、ケレンのない誠実な人であった。容易に妥協しない、筋を通す人間だったことも、これまでの行動で理解できよう。こういう人間は人に摘めつぁい感じを与える。…要請の尊氏に対して、まさに陰性である」。また、夢窓国師は、『夢中問答集』において、仏法の教理、そして政治・信仰について理論的な構築を持って物事に対処する事等の多大な影響を直義に与えた事が窺える。

 

(写真:ウィキペディアより「伝源頼朝像」足利直義蔵と「伝平重盛像」足利尊氏像)

 足利直義は非常に仏教に帰依し、施政においては、仏教思想を取り入れ兼実に、そして論理的に構築された施政であった。その分、融通が利かず、婆娑羅武将には不満を抱かせた。興国三年/康永元年(1342)九月六日、婆娑羅武士の一人である土岐頼遠が酒に酔い、光厳天皇に狼藉を働きく事件が起こる。頼遠は、一度は美濃にかえり謀叛を計画するが、臨川寺(りんせんじ:京都市右京区にある臨済宗天龍寺派寺院)にいる夢窓国師を頼り助命嘆願を行う。直義は「国師(夢窓)の口添えならば頼遠は厳罰とするが土岐の子孫は許す」として十二月一日に京都六条河原で斬首された。直義の施政には常に仏教上の道理を伴っていたと考える。 ―続く