鎌倉散策 海棠が咲く妙本寺と光則寺 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 三月二十七日土曜日、鎌倉駅近くの妙本寺と長谷の光則寺の海棠が咲き始めたかを確認をしに出かけた。二十三日火曜日に北鎌倉の浄智寺と扇ヶ谷の海蔵寺に出掛け、海蔵寺がほぼ五分咲き近かった為である。

 

 小袋谷から何時ものようにバスで若宮大路まで行き、大巧寺を抜けて、夷橋を渡り妙本寺へと行く。大巧寺は多くの春の色彩と可憐な花々が咲きだし、重々しかった冬の空が消え、春の音連れを感じさせてくれる。その花々を写真に納め、仏殿の産女霊神(おんめさま)に手を合わせ、寺を後にした。男性の私にとって関係のない寺かもしれないが、もともと十二所にあった大行事という真言宗寺院であり、頼朝がこの寺で軍議を開き、その後に大勝を納めた事から大巧寺と名を改め若宮大路に移ったとされる。若宮大路沿いには「頼朝戦評定所」の石碑があるので、無事出産をいのるだけの寺院ではない。

  

 滑川にかかる夷橋を渡り、妙本寺の総門を過ぎ、祇園山にかかる杉や檜の鬱蒼とした参道を行く。鎌倉駅の周辺の人出に比べ、ここは本当に静かであり、私の大好きな場所である。山門に続く階段を登り、朱色の山門をくぐると手前に桜、本堂近くに海棠が見事に咲き始めていた。日蓮上人像が桜で彩られ、本堂手前と比企家の墓と袖塚の間に海棠の木が植えられ五分咲き程度になっていた。やはりこの海棠を求めて、アマチュアカメラマンの人々が多く撮影され、講師の人に色々と指導されていた。

 

 
 

祖師堂で手を合わせ、そこから境内を見渡しながら見る海棠も美しい。祖師堂前の海棠は、評論家小林秀雄と中原中也が女性を巡り中違いしていたが、この海棠の前で和解したという。鎌倉初期、比企の乱で北条家に滅ぼされた比企家の墓と一幡袖塚の間に立つ海棠は、まだ小さいが、鎌倉の悲しい物語に鎮魂の花を添えているようだ。そう感じながら妙本寺を後にした。

 

 長谷の光則寺には、日ごろの運動不足解消のため海岸通りを歩いて行く。妙本寺からは三十分ほどである。鎌倉駅西口に戻り江ノ電で長谷まで行くことは、電車の待ち時間等を考えると、そう変わらない。昔の鎌倉は別荘族の人達で、こちらの海岸通りの方が賑わっていたとの事だ。通りの所々に、その面影を残している。大仏通りに突き当り高徳院の方を少し行き左に折れ住宅街の中を進むと桜に彩られた山門にたどり着く。朱色の山門をくぐると、すぐ目の前に海棠の木が三分ほど花を開かせていた。

 

 

 本堂手前の海棠も見事な木で、こちらも三・四分咲きである。美しい桃色の花びらが楊貴妃の美しさを伝えるように咲いていた。前回でもご紹介したように海棠は正式名称「花海棠」ハナカイドウ、バラ科リンゴ属の木で桜が咲き終わった頃の四月から五月初旬にかけて咲く。花言葉は「艶麗」「温和」「美人の眠り」で、楊貴妃にまつわる話から由来され「睡れる花」として、美人の代名詞とも言われる。皇帝が、ほろ酔いで眠そうにしている楊貴妃を見て「海棠の眠り未だ足りず」と言ったとの逸話がある。海棠の「棠」は梨を意味し、海を渡ってきた梨という意味でつけられた。日蓮宗の寺院である妙本寺、光則寺の海棠は、後、二週間くらいは咲き続けると思う。また一週間後くらいに満開の海棠を見に訪ねてみたいと思う。