鎌倉散策 神護寺三像、八「伝源頼朝像」夢窓国師、 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 仲の良い足利尊氏・直義兄弟の同母上杉清子が亡くなったのが康永元年(1342)十二月二十三日である。没年齢は定かではない。「足利直義願文」には于時康永乙酉年孟夏(四月)二十三日記之と有り、私自身で乙酉の年を探すと貞和元年/講和六年(1345:二月には各国に安国論寺・利生塔の設置が決定した年)であり、四月二十三日である。高野山金剛三昧院への寄進も行われた日が貞和二年(1346)四月二十三日と同じ四月二十三日であり、母清子の月命日であった。これらは母清子の菩提を弔う直義の宗教的な感性を探る事が出来る。二頭政治は古来から成り立つことは難しいとされていたが、「母清子の死により尊氏・直義兄弟の仲が次第に疎遠になって行く端緒となったと言えるだろ。二人の対立の拡大に「歯止め」が失われたのであった。」と黒田氏は推察されている。

 

  

(写真:ウィキペディアより十四世紀、妙智院蔵、夢窓疎石像と夢窓疎石墨跡 二行書「若一生度此れ三妄執 即一生成仏何論時分耶」)

これらの政治思想・宗教思想を足利尊氏・直義に大きな影響を与えていたのが夢窓国師であり、直義・夢窓・尊氏の寶積経用品の写経等からも窺える事が出来る。夢窓疎石は(むそうそせき)は鎌倉時代から南北朝・室町時代初期にかけての臨済宗の僧であり、作庭家・漢詩人・歌人である。別名を木訥叟。建治元年(1275)、伊勢国で生まれ、母方(平氏)の一族の争いで甲斐国弘に移住。弘安六年(1283)、九歳で得度し、甲斐国市河荘内の天台宗寺院平塩山寺(現在廃寺)の空阿に入門して真言宗や天台宗を学ぶ。正応五年(1292)に奈良東大寺で授戒するが、永仁元年(1293)に天台宗の碩学(せきがく:修めた学問が広く深い事)である明真の示寂(じじゃく:高僧等が死ぬこと)に立ち会ったが高僧の死に臨んで何も説かなかったことに、博学の明真でさえ仏法の法印の大意を得る事が出来ないか、と疑問を抱いたという。二十歳で建仁寺に移り禅宗の最初の師として無隠円範らに学んだ。無隠から「智臛」の法諱(ほうい、ほうき:僧侶が授戒する時に受ける法名)を受けたが、後に「疎石」に改名し道号を「夢窓」と自称した。

 

(写真:鎌倉 東勝寺跡)

 礎石は鎌倉に赴き東勝寺の無及徳詮に学び、次に建長寺の葦航道然に教えを受け、円覚寺の桃渓徳悟にも学んだが桃渓の指示で再び建長寺に戻って痴鈍空性に師事するが、結局は帰京して、建仁寺の無隠円範に再び参じた。その後は正安元年(1299)八月、元からの渡来僧の一山一寧に師事するが、「法統」を受け継ぐ事に及ばず、印可(師僧が弟子に法を受けて、悟りを得たことを証明する事)に至らなかった。一山は日本語を話さなかったため、禅の細微を理解する事に困難を覚えたためとされ、禅宗の修得について苦労した事が窺える。嘉元元年(1303)に鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び最終的に嘉元三年(1305)十月に高峰から印可を受けた。後に浄智寺の高峰顕日の法を継ぐ。

 

(写真:鎌倉 浄智寺)

 その後、各地に行脚に出て、甲斐牧の荘の浄居寺を創建。天龍山栖雲庵を結び一時隠棲するが、正和三年に美濃国に故谿庵、翌年に同地に観音堂(虎谿山永保寺)を開いている。元徳二年(1330)には甲斐守護二階堂貞藤(道薀)に招かれ牧庄内に恵林寺を創建し、鎌倉中期の渡来僧蘭渓道隆以来になる甲斐の教化に努めた。千葉県の太高寺の伝によれば、元享三年から二年半、同地に「金毛窟」と呼ばれる洞に隠棲し、座禅修行を行ったとされる。後醍醐帝が疎石を招聘するが固辞し、執権北条高時を通し、上洛を促した。同門の元翁本元と供に上洛したと伝わる。また、上洛は中山道を通り、創建した寺院とゆかりがある甲斐国・美濃国を経由したと言う。

 

(写真:鎌倉 瑞泉寺山門に向かう男坂、女坂と山門)

 正中二年(1325)に後醍醐帝かの要望により上洛、勅願禅寺である南禅寺の住持となるが、翌年辞職し、かって自ら開いた鎌倉の瑞泉寺に戻り偏界一覧亭を作庭している。夢窓疎石は禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済宗の主流の応燈関派にこそなれなかったが幅広い層からの指示を受けている。元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡すると、建武新政を開始した後醍醐帝に招かれ臨川寺の開山を行ったこの時の勅試役が足利尊氏で有り、以後、尊氏と疎石を師と仰いだ。同年十月に後醍醐帝の正妃である皇太后宮西園寺禧子(後京極院)が崩御すると後醍醐帝の願いでしばらく宮中に留まり禧子の二十七日法要を担当した。(『夢窓国師年譜』)。翌年ふたたび南禅寺の住職となる。建武二年、(1335)に後醍醐帝唐「夢窓国師」の国師号を与えられた。

 
(写真:鎌倉 瑞泉寺本堂と偏界一覧亭)

 建武新政を崩壊した足利尊氏や弟の足利直義らは北朝を擁立して京と室町に武家政権(室町幕府)を樹立した。延元四年/王暦二年(1339)に幕府重臣(評定衆)である摂津親秀(中原周秀、藤原親秀に請われ、西芳寺の中興開基を行う。同寺はこの最高で浄土宗から禅宗に変更されている寺名もそれまでは「西方浄土寺」であったが西方浄土寺と隣接する厭離穢土寺の二寺を統合し、禅宗の祖である達磨大使を指す「祖師西来五葉聯芳」に由来する「西芳精舎(西芳寺)」と改められた。

 また、南北朝騒乱に戦死した武士の霊を慰めるため、全国に安国寺及び利生塔の建立を薦め、後醍醐帝の追善の京都嵯峨野に為天龍寺造営にあたり開山となる。この建設資金調達の為(1342)に天龍寺船の派遣を献策し、尊氏は資金を得る事が出来た。礎石は足利家内紛である観応の擾乱では双方の調停を行い、この間に北朝方の公卿や武士が多数、疎石に帰依している。生涯多くの弟子を持ち、禅傑を輩出した。天龍寺・相国寺を中心に当時の五山の中での最大の派閥となった夢窓派の祖である。生前に尊称として夢窓国師・正覚国師心宗国師、死後普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と七度に渡り国師号を歴代天皇から賜与され「七朝の帝師」とされ、宇多天皇の九世孫を称する。正平/観応二年(1351)九月三十日に入滅。享年七十七歳であった。 ―続く