鎌倉散策 神護寺三像、七「伝源頼朝像」足利直義と観応の擾乱 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 正平四年/貞和五年(1349)六月、足利直義は、高師直と対立し、上杉重能、畠山直宗、僧明吉等と師直の執事解任を謀議し、尊氏に師直の悪行の数々を挙げ糾弾を迫り、師直の執事職解任に成功する。しかし、師直は後継の執事に甥の師世を就任させ、幕府政治の高氏一派の排斥には失敗した。『太平記』二十七巻十、「佐兵衛督師直を誅せんと欲せらるる事」には直義方が師直の暗殺未遂騒動まであったことが記されている。逆に師直は河内から軍勢を率いて上洛した兄の師泰と合流し、同八月十三日、直義を襲撃したが、あわゆく難を逃れ尊氏邸に逃げ込んだ。尊氏邸を包囲した師直は直義を保護した尊氏に上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求する。まさに婆娑羅による謀叛である。直義にとって、この二人を失う事は今後の自身の地位、施政に多大な影響が出るため拒んだ。しかし禅僧の夢窓疎石の仲介により重能・直宗を配流、そして直義が出家して幕政から退くと言う事で師直は包囲を解くことに同意した。

 その後、再度の夢窓疎石の仲介により、直義は鎌倉から京都に来る義詮の補佐をすることで政務に復帰するが、立場上において降格となり、発言力もない状態に等しかった。また、師直も執事に復帰した事で大きな軍事衝突は避けられたかに見えた。九月九日に尊氏は義詮と交代の為に直義の猶子であった基氏を実子として鎌倉公方に下向させたとされる。それは、十月に高師冬を基氏の執事と定め翌年正月に鎌倉に下向させていることから窺う事が出来、尊氏は直義から離れたと考えざるを得ない。しかし、基氏は当時十歳で同行した武士は百騎にも満たぬ軍勢であったとされる。しかし、十月二十二日に義詮が鎌倉から入京し、十二月八日、直義は出家して恵源と号した。そして、正平四年/貞和五年(1349)十二月二十日に高師直の謀叛により捕らえられた上杉重能と畠山直宗は友に越前に流され師直配下の越前守護の八木光勝により斬殺されている(『太平記』第二十七巻十二「上杉畠山死罪の』では八木光勝の無頼の徒に襲われ、畠山直宗は自害し上杉重能は八木光勝の中間どもに生け捕ら差し殺されている。直宗は自刃した刀を重能の前に投げやり、「御腰刀は、ちと寸延日て見え候符。これにて御自害候へ」と云ひもはてず、うつ伏しになりて倒れにけり)。

(写真:ウィキペディアより夢窓疎石像)

 正平五年/観応元年(1350)六月二十一日、九州で勢力を拡大していく足利直冬(足利直義の養子、尊氏の非認知子息)に対し高師泰が京都を出発した。そして直冬が十月十六日に直冬が九州で挙兵した知らせが入ると尊氏は師直を率い同二十八日に九州へと下った。直義は尊氏・師直が京都を出る前日に秘かに京都を出て大和国へ赴き高師直・師泰の謀伐を呼びかけている。その後、十一月二十一日に畠山国清の河内石川城に迎えられ、幕府は決定的に内部分裂した。本来、広義で捉えると直義が京都を出て大和に赴いた時点が観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の始まりとされ、尊氏は、直冬追討の遠征から至急引き返し、正平六年/観応二年(1351)正月七日には摂津国瀬川宿にもどり、直義も京都南部の石清水八幡宮が所在する八幡には入った。同十五日には近江国から桃井直常が入京し、尊氏派と合戦が始まる。鎌倉では直義の呼応に対し東国での反応は早かった。前年の十一月十二日に関東管領上杉憲顕の子で殺害された上杉重能の養子となっていた上杉能憲が常陸国で挙兵する。そして上杉憲顕が領国の上野国に出発し、十二月一日には上野国に赴いた。これを討つべく高師冬は基氏を擁して鎌倉を出立したが、毛利荘の湯山で(現、厚木市)で、師冬の軍内において反乱がおこり、憲顕勢力に基氏を奪われてしまう。

(写真:ウィキペディアより足利直冬)

 尊氏勢は二月に入ると京都を目指すが、直義勢は二月十七日には尊氏を摂津国打出浜まで追い込み合戦に勝利した。二十日に、尊氏は直義と和議を寵童饗庭氏直(尊氏側近、饗庭明鶴丸:あいばみょうつるまる)を立てて図り、その条件として表向きは、高師直・師泰の出家(除名とされているが)であったが、実際には直氏には直義に師直の殺害を許可する旨を伝えたとされ、和議は成立する。そして二十六日、京都への護送中の高師直・師泰を摂津武庫川(兵庫県西宮市と伊丹市の境)で上杉能憲により一族共に誅殺され、能憲は養父重能の仇を討ち、直義は長年の政敵を排すことが出来た。

 

(写真:京都室町周辺)

 同年七月二十八日、近江の佐々木導誉(京極高氏)と播磨の赤松則祐が両国で護良親王の皇子・陸義親王を推載し、南朝方と通じた知らせを受け、尊氏・義詮は二人を討伐するという事で京都を発つ。尊氏は導誉の近江に向かう。佐々木導誉は赤松則祐の舅であり、則祐は義詮に討伐を受け降伏しているが、これは偽装で、京都に残る直義を尊氏・義明親子が南北から挟み込む策略であったとされるが、真相は不明だ。導誉は後に幕政にも参加しており、直義追討の綸旨を後村上天皇から受けるように尊氏に進言している。七月三十日に直義は、その策略を察知し越前の足利庶流である斯波高経の下に向かう為に京都を脱出した。直義は幕政内での反直義勢を義詮の仲介により関係修復を期待したが、尊氏は義詮を指示して再び緊張関係を高めた。その後、尊氏と直義の折衝は数度行われたが、合意には達せなかった。

十二月二十七日に薩埵山の合戦にて、直義方の石塔義房・頼房親子が尊氏勢に攻め入り伊達景宗と戦ったが結果、尊氏方が勝利した。伊豆国府にいた直義に向かい箱根・竹之下に陣を張る。勢いに乗る尊氏方は上杉勢と交戦するが、上杉憲顕、長尾景康は信濃国に落ちて行った。同二十九日には浮足立った直義方は敗走し直義は伊豆山中に逃れたとされる。

  

 正平七年/観応三年一月五日には鎌倉に追い込まれた直義は尊氏と講和を行い降伏した。その後、浄妙寺の横にあったとされる円福寺(廃寺となる)に幽閉され二月二十六日に急死している。高師直・師泰・師世が武庫川湖畔で上杉能憲により誅殺された一年後であり、実子如意丸の一周忌の翌日であった。享年四十一歳であった。『太平記』三十巻十一、恵源禅門逝去の事において黄疸による病没とされるが、「実は鴆(:日本ではヒ素等を指し鴆毒と呼ぶ)に犯されて、逝去し給ひけるとぞささやきける」と風評により尊氏の毒殺説とも取れる記載がされおり、死因については定かではない。直義の死により観応の擾乱は終わる。

 

 二人の仲の良い兄弟の母上杉清子が亡くなったのが康永元年(1342)十二月二十三日である。貞和二年/正平元年(1346)に「故戦防戦」の禁止を発令し直義と高師直師直の対立が拡大する。この頃から尊氏・直義の二頭政治が揺らぎ始めたと考える。貞和五年/正平四年(1349)六月に直義と高師直師直の対立により師直の執事職解任に成功する。同八月、高師名の襲撃により直義が職務停止となった。この歴史的背景により「足利直義願文」は何を語っているのだろうか。 ―続く