鎌倉散策 神護寺三像、二「伝源頼朝像」肖像画としての絵絹の大きさ | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 本題の肖像画としての絹絵の大きさに入る前に、もう一度、黒田氏の神護寺三像の戦前からの解説と戦後に始まった論争に就いてまとめさせて頂く。

 藤懸静也の大正八年(1918)五月の『國華』三三六号に掲載された源頼朝像の解説は質的に異なっている。「伝頼朝像」「伝平重盛像」を「伝藤原隆信筆」、「伝藤原光能象」は別人の手になりたる事を首肯し得べし。要するに隆信が肖像画の達人たりしは其(そ)の名声の世に喧伝せられたるに徴して明らかなれども、今其の真蹟(しんせき:ほんとうにそのひとがかいたもの)として動かすべからざる確証を有する作品を挙ぐる能はざるを(作品がない良い上)遺憾とす。」と解説し、光能象は頼朝像・平重盛像とは作者が明瞭に異なり、頼朝像は本人を生写したものではなく、真実筆とされる武将の個性を似絵的に表現して何時「似絵(肖像画)」の作品とだとした。

(写真:ウィキペディアより神護寺、伝源頼朝像)

 谷真一も昭和九年(1934)に奈良帝室博物館で開かれた「日本肖像画展覧会」の図録として出版された『日本肖像画図録』『日本肖像画図録 解説』において光能象は源頼朝像・平重盛像を技法的に比較して、隆信作となしうるものは頼朝像・平重盛像だけであると判断している。そして。神護寺三像において「ただ似せ絵といふものが、信実的なものに中心を求むれば、この隆信的な者との間には格段の相違がある事には注意せられる」また『鎌倉初期に於いてその先行する類品を残さずして現れてゐる」この不思議さを「絵画史上の一問題」とし、通説に疑問を抱いた事を窺う。また、昭和十六年(1941)に出された「国史肖像集成 第二輯 将軍偏』にて通説を明らかに疑った。「『神護寺略記』には隆信筆とある諸像は同一とは言えず、中には鎌倉期の模本も混在しているから、隆信筆を疑った。そして源頼朝像は鎌倉中期の作品ではないかと「思想」したのである。戦前の肖像画研究を代表する谷進一の解説は、通説に対するはっきりとした懐疑を表明したのであった。」と黒田氏は述べられている。

(写真:ウィキペディアより神護寺、伝平重盛像)

 また、戦前の美術史学の神護寺三像を鎌倉期初期の似絵を代表する作品とする事に懐疑を表明したのが源豊宗(みなもとのとうおむね)であった。昭和七年(1932)九月『日本美術史図録』を出し、『神護寺略記』の記載と神護寺三像の結びつきを信じ、神護寺三像の表現に、大和絵的手法と、宋画の伝神法、服装の直線的な硬さを持った表現に鎌倉美術の様式を認め、似絵画家隆信の筆としていた。ところが昭和十五年(1940)の改訂版では、源頼朝像を外し藤原信実の後鳥羽上皇(水無瀬神宮蔵)を掲載し、藤原信実筆の後鳥羽上皇こそが似絵の代表作とし、戦後早々に発表された論文「神護寺蔵伝隆信の画像についての疑い」の前提となったのである。

(写真:ウィキペディアより神護寺、伝藤原光能象)

 戦後まもなく神護寺三像についての論文は森暢の「源頼朝像について」である。『神護寺略記』『神護寺最略記』『高尾山神護寺規模殊勝之条々』等を総合的に判断すると、もしもその制作に藤原信孝が介在するならば彼が亡くなる元久二年(1205)までに描かれた作品になるという。『神護寺略記』による判断なので通説を再確認し源豊宗を牽制するような論文であり、大英博物館の源頼朝像を持ち出し説明している。また神護寺三像の線描・筆致・手法に明瞭相違が有って同一作品であることは明らかであるとし、あまりにも完好な源頼朝像については、大英博物館本との比較により説を支えている。また宋風画像の影響は禅宗の渡来と共に流行するに至った頂相(ちんぞう)様式を基準とするのが美術史の従来の常識であるとし、あえて藤原時代の仏画にもその影響はみられるとする曖昧な主張であった。神護寺三像は鎌倉初期の作風であるとする美術史家において黒田氏は比較できる鎌倉初期の肖像画作品は皆無であると述べられている。そして源豊宗は鎌倉後期説について重大な問題提起を行った。源豊宗は、神護寺三像は鎌倉初頭に新しく発生した大和絵肖像画の作風として理解する事は困難である。「神護寺略記の権威は人をして隆信説を疑わせなかった。そして人は神護寺略記を疑わない以上に隆信説を疑わなかった。そして人は神護寺略記を疑わない以上に、隆信説を疑わなかったのである」と考え、次のような疑いを通説に突き付けた。第一点、造形感覚の矛盾。第二点風俗史的矛盾。第三点、絵絹の時代的矛盾。第四点、神護寺略記の解釈である。と明快な論点として示された。

 

(写真:奈良當麻寺)

 長くなったが、第三店の絵絹の時代的矛盾が理解しやすいため、肖像画としての絹絵の大きさを黒田氏の「第四章広幅の絵絹は物語る」を紹介させて頂く。東京芸術大学院文化財保存学日本画研究室編『図説 日本画用語辞典』(東京美術2007)。絵絹(えぎぬ)とは画絹とも書き。料絹、絹本ともいう。絵を書くための絹で主に、平織りの生絹が用いられているが絖(絖)や綾を使った例もある。古代では通常装束に用いる平絹を絵画制作に用いたと考えられる。絹幅は衣服の形式より奈良時代では五十六センチ程度、平安時代では四十五センチほどで有った為、大画面の作品を制作する場合は、縦方向に次ぎ合わせて用いた。例えば三枚を継ぎ合わせて一枚にした物は三副一鋪(さんぷくいちほ)という。現在では絹絵の幅はさまざまであるが織り方は通常二丁杼(にちょうひ)で織られ、合わせて織り入れる織り糸の本数により厚みや硬さを変えて二丁重めや三丁杼がおられる。『世界美術辞典』(新潮社、1985)では絵絹の幅は一尺三寸から二寸前後(約三十~六十㎝、特に一尺八寸の物を尺八と言う)で、時代によって相違があり、まれに鎌倉時代の京都禅林寺蔵「当麻曼荼羅」のように幅十二尺八寸九分(390.7㎝)に及ぶものがある。しかし一般に大幅では二枚以上の絹(“副”)を縦に次ぎ合わせて広幅の画面(“鋪”)を作り、“三副一鋪”などと呼ぶ。現在では絹糸の太さにより、一丁樋(いちちょうひ)、二丁樋、三丁樋の暑さの区別があり、幅は一尺から六尺の物が有る。中国の画絹は、唐末五代までは粗絹で、宋代以降、均質な平織りが用いられた・・・」

 

(写真:奈良當麻寺)

 黒田氏は信じがたい記述も含まれているとし、「京都禅林寺蔵「当麻曼荼羅」の広幅の絹を織る事が可能だと思っているらしい。…現代の織幅でも、最も広い物でも六尺(一・八m)なのだから一体どの様にしておれば三・九mもの織幅の絵絹が生産できるのかと考えさせられる記述である」と苦言を呈している。実際、私も京都禅林寺蔵「当麻曼荼羅」や中将姫様と「当麻曼荼羅」で有名な奈良の「当麻曼荼羅」の縦横四メートル四方大画幅と記載されているが、継ぎ合わされているかは記載されていない。

 

 中野玄三編著『仏教美術用語集』(淡交社1983)の記述も引用されている。大化の改新で調貢の絹絁(あしぎぬ)の幅は二尺五寸(七五・八センチ)、養老令で広絹は二尺二寸(六六・七センチ)・短絹一尺九寸(五七・六センチ)、天平元年(729)に広絹を廃止一尺九寸に統一され、延喜式では絹絁一尺九寸・広幅に尺五寸・長絹一尺九寸の三様になった。平安時代に入ると、絵絹の幅は大体一尺五寸以上、鎌倉時代以後一尺五寸以下となる。しかし、大陸の輸入品の影響からか鎌倉時代になると三尺を超える広幅の絵絹が登場する。絵絹の幅が画面の横幅をとる為には、例外的な広幅の絹を除いて、何幅かを縫い合わさなければならない。この様にしてできた絵絹を何副一鋪と呼ぶ。

(写真:ウィキペディアより奈良當麻寺、当麻曼荼羅)

 神護寺三像の一枚の広幅絵絹だという重要な特徴に最初に着目したのが美術史家源豊宗で論文「神護寺蔵伝隆信の画像についての疑い」で「絹絵の時代的矛盾」を『大和画文華』十三、(1954)でしてきしている。黒田氏は源豊宗著『大和絵の研究』角川書店1967を引用されている。要約すると神護寺三像の画像は、一巾の広い絵絹であり、普通は広い横巾を持つ場合多くは中央の一巾と左右にほぼ半巾の絹を縫い合わせる。画絹の幅は藤原時代では一尺六寸(四十八・五センチ)が普通で、鎌倉時代では一尺七寸(五十一・五センチ)。二尺を越える画絹は無かったのである。妙法院の後白河法皇の御影でも横二尺七寸(八四・二センチ)であるが、当時の方式に従って三枚の絹を継いだものである。今日知られる画絹で二尺を越える物は鎌倉後期に入ってからで、最も早いものが東福寺の内万寿寺の弘安三年(1280)入寂の聖一国師自賛の画像で、一巾三尺二寸四分(九八・二センチ)の絹を用いている。これに継ぐ物は同じ東福寺の正安元年(1299)の賛を持つ山叟慧雲(さんそうえうん)画像で三尺七寸六分(一一三・九センチ)の絹で、この頃から広巾の画絹が次第に多く用いられるようになった。結論は現代でも六尺の絵絹を作るのが最大で、絵絹の制作過程においての技術がおよばず、鎌倉末期でようやく二尺を越える画絹が出現した事になり、これらも中国宋、元からの輸入されたものと考えられる。したがって、神護寺三像の制作時期が鎌倉初期ではなく、鎌倉末期か南北朝時代と黒田氏等は説明されている。それでは、「神護寺略記」とは何なのか。 ―続く