鎌倉散策 神護寺三像、一「伝源頼朝像」本来の像主名 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 京都高尾神護寺三蔵「伝源頼朝像」は、私たちの世代で学生時において教科書にも出展されてい源頼朝像である。しかし、近年の教科書には出展されていない。それは、平成七年(1995)米倉迪夫氏の『源頼朝 沈黙の肖像画』で、護寺三像野像主名は「伝頼朝像」が足利尊直義、「伝平重盛像」が足利尊氏、「伝藤原光能象」が足利義顕とされ、制作時期も南北朝時代の十四世紀中頃と発表された事により、現在新説が肯定されつつあるためだ。当時、私自身は驚いたが、よくある新説をにおわせた書物として米倉迪夫(みちお)氏の『源頼朝 沈黙の肖像画』は読まなかった。しかし、平成二十四年(2013)に黒田日出男氏の『国宝神護寺三像とは何か』が発行され、私が中世史に興味を持ち始めた頃であった。色々と中世史を勉強しだすと源頼朝、足利直義を検索すると神護寺三像野の「伝頼朝像」は足利直義との説が出てくる。私たちが勉強していた時とは変わりつつあったと思ったが。とりあえず、仕事のかたわら五年ぐらいかけて一通り、鎌倉期、南北朝期を勉強し、昨年晩秋にようやく米倉迪夫の補論として考えていた黒田日出男氏の『国宝神護寺三像とは何か』を購入し読んで見ると、補論以上に美術史の観点と歴史学を明快に論証し、自説の何故、護寺三像野像主名は「伝頼朝像」が足利尊直義、「伝平重盛像」が足利尊氏、「伝藤原光能象」が足利義顕とされたかを検証されている。

(写真:ウィキペディアより引用、伝源頼朝像)

 一つここで確認に宋画を取り入れた肖像画である。時代が南北朝期の作としても秀作であり、国民が認める国宝であることは間違いない。そして、そこに名実とも描かれた由来が判明すれば、より、国宝として値するのではないかと考える。そして鎌倉末期から南北朝にかけての歴史を理解するうえで大変貴重な作品・資料となるからである。

 黒田日出男氏は早稲田大学文学部史学科国史専修入学、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了、東京大学資料編纂所教授・所長を経て現在、立正大学教授・群馬県立井歴史博物館館長。専門は日本中世史(絵画資料論、歴史図像学)であり、著書に『増補 絵画資料で歴史を読む』『王の身体の肖像』『江戸図屏風の謎を解く』『源頼朝の真像』がある。

(写真:ウィキペディアより引用、伝平重盛像) 

 京都神護寺は京都市右京区高尾山にある高野山遺迹(ゆいせき)本山の寺院で山号を高尾山、寺号を神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と号する。創建年は天長元年(824)。開基は和家清麻呂で弘法大師が高野山、東寺を経営する前に一時住していた寺院である。神護寺は和気氏の私寺であったと考えられ「神願寺」「高尾山寺」という寺院が天長元年に合併した寺である。神願寺は和気清麻呂により八世紀末に建立された寺院であるが、その所在について河内二上山説、山瀬男山説などが有る。山瀬説には神願寺を石清水八幡の源流として位置づけられる説もある。国宝として木造薬師如来像、絹本著色釈迦如来像木造五大虚空蔵菩薩坐像、紫綾泥両界金銀曼荼羅図(高尾曼荼羅)、絹本著色・「伝頼朝像」・「伝平重盛像」・「伝藤原光能象」神護寺三像等がある。

(写真:ウィキペディアより引用、伝藤原光能像)

 作品の基本情報は三像とも絹本著色、掛幅装。明治三十年(1897)古社寺保存法に基づき、岡倉天心が十分な時間もなく調査を行い国宝(旧国宝)に指定された。寺伝と称される「神護寺略記」の信頼性と転身の判断によるものであり、指定名称は「源頼朝外三人肖像絹本著色(伝藤原隆信筆)四幅(文覚上人像が含まれる)。文化財保護法施工後、昭和二十六年(1951)に神護寺三像は、国宝(新国宝)に指定され、文覚上人像は重要文化財に指定された。この調査も時間的な余裕と科学技術も薄く、特に太平洋戦争前からは、朝敵足利尊氏等の南北朝時代の研究が「南北朝正閏論争」がおこり、国家により抑制され、研究が停滞していた時期でもある。従って歴史研究は進んでおらず、国宝指定された。国宝指定名称は「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能象 三幅(各幅伝藤原隆信筆)」である。

「伝頼朝像」が縦143㎝、横112.8㎝ 向かって右斜めを向き。

「伝平重盛像」が縦143㎝、横112.2㎝ 向かって左斜め向き。

「伝藤原光能象」縦143㎝、横111.6cm 向かって左斜め向き。と三像の人物は、ほぼ等身大と表される。平安期から鎌倉末期までは絹を複数枚張り合わせて著色されたていたが、神護寺三像は一枚絹(一幅一舗)に描かれている。三像は、上げ畳(あげたたみ)のうえに座し、束帯姿、黒色の袍(法)を着用し、冠を被り、笏(尺)を持ち威儀を正し、太刀を佩用(はいよう)する。「伝頼朝像」、「伝藤原光能象」は足に襪(しとうず:足袋)を履くが、「伝平重盛像」の足は現状では見えない。

 

(写真:ウィキペディアより引用、毛抜形太刀)

 足の上あたりに見える細長い布は太刀の平緒である。袍の文様は「伝頼朝像」が輪無し唐草文、「伝平重盛像」「伝藤原光能象」は轡(くつわ)唐草文である。太刀は「伝平重盛像」柄(つか)の部分が剥落しているが、「伝頼朝像」「伝藤原光能象」の絵の形式は毛抜形太刀である。有識故実的な検討から三像とも四位以上の公卿であり武官であることが判明している(鈴木敬三「似絵の装束について」『新修日本巻物全集』二十六巻、角川書店1978年)。作者は藤原隆信(平安末期から鎌倉初期にかけての貴族・家人・画家藤原北家長良流、皇后の宮少進・藤原の為経の子官位は正四位以下・左京権大夫)で似絵(にせえ)・肖像の名手として伝わる。画風は大和絵に宋画の手法を加味したものと表され、ひげ、眉、睫毛、髪の生え際などは細かく線を重ねる丁寧な墨描きで、「伝頼朝像」の面部にはごく淡い朱色の隈取をほどこして立体感を表出している。「伝平重盛像」は面部などの画面に損傷が多く、上畳の前方のヘリの文様はほとんど消失している。「伝藤原光能象」は他の二像よりより少し遅れた時期に造られ、やや作風が劣るとされている。

 所有者は神護寺であり、「伝頼朝像」「伝平重盛像」は京都国立博物館、「伝藤原光能象」は東京国立博物館に寄託されている。毎年五月一日から五日に開かれる曝涼(虫干し)展では、「伝頼朝像」「伝平重盛像」の二像は神護寺に戻され一般公開される。「伝藤原光能象」も東博の常設展示や定期的に公開される。

(写真:ウィキペディアより引用、毛抜形太刀)

 神護寺三像は十四世紀に編纂された「神護寺略記」の「千洞院には後白河院および平重盛、源頼朝、藤原光能、平業房の肖像が安置してあり、これらは藤原隆信が描いたものである」と記述されており、後白河院と平業房を除く三幅とされた。また大英博物館の源頼朝像は神護寺「伝頼朝像」と全く類似しており、上部には源頼朝像の賛が記載されており、頼朝像として製作されたことは間違いないとされた。これと画風により従来の十三世紀初頭「伝頼朝像」の宮島新一氏の従来の説の根幹である。

 米倉迪夫氏は美術史家であり、黒田日出男氏は日本史家で「資料」として絵画を読み解いている絵画資料論者である。米倉氏は決定的な着眼となった、「足利直義願文」を探し求めており、黒田氏が謄写本京都御所東山御文庫文書に神護寺文書の記載があること思い出し、「足利直義願文」を発見する。また、大英博物館の源頼朝像の賛についても検討し、その時期を明らかにしている。そして一方日本中世史の大家である上横手雅敬氏も「源頼朝像をめぐって」(『竜谷史壇』一〇六、一九九六年)大英博物館の源頼朝像の賛の文章の記載された時期を下しており、大英博物館源頼朝像の修理の際に検証され証明された。これらにより従来の宮島説の根幹は無くなっているが,

神護寺は宮島説を今も支持している。黒田氏は『国宝神護寺三像とは何か』で次々と検証され証明され,また足利直義の自説を展開されている。。それらを紹介していくことにしたい。

・鎌倉初期、「伝頼朝像」の縦143㎝、横112.8㎝の絵絹は存在しなかった。 ―続く