鎌倉散策 神護寺三像、三「伝源頼朝像」神護寺略記とは | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 前回は絵絹について源豊宗(日本美術史の大家)の絵絹の特徴に着眼した点につき、黒田氏の検証と証明をまとめさせて頂いたが、もう少し補足させて頂く。

 中国における絹の織幅の推移を見ると、時代において基準尺、織幅、織幅メートルで見てみると

戦国、〇・二二九、二尺二寸、〇・五〇四

前漢、〇・二二三、二尺二寸、〇・五一二

後漢、〇・二三四、二尺二寸、〇・五一五

唐代、〇・二九四八、一尺八寸、〇・五三〇六四

   〇・二九四八、一尺九寸、〇・五六〇一二 

宋代、〇・三一八五、二尺五分、〇・六五二九二五と整理されたのである。

 

 古代・中世までは問題なく中国の絵絹が優れており、これらの推移から時代が経過するにつれ織幅が広がっている。要因は織物技術の向上、徴税の在り方の変化(絹が税の品目から外れる)、広幅絹織物の需要が増加する等が揚げられている。また、唐代における一尺八寸・一尺九寸の織物は『世界美術辞典』の絹絵にある“尺八”と関連し、絹本作品の横幅が絹の織幅と密接に関係して来たと述べられている。元代に入ると一副一鋪の絵絹が織られ、一〇〇㎝以上の作品を『世界美術大全集 東洋編第七巻 元』(同、一九九九年)で十一作品が収録され呉鎮の双松図軸は横幅一一一・四㎝と神護寺三像と同じ絹絵であり、元・泰定五年(1328)と有りほぼ同時期の作品である。元代が広幅の一副一鋪の絵絹に描かれた作品が盛んに作られた時代であったことを示されている。私見であるが宋太租坐像は191.0×169.7と一副一鋪で十世紀後半から十一世紀前半とされている作品等が見られるが、技術的に可能だったのだろうか。

 

 黒田氏は日元交通(私見であるが元寇後の鎌倉末期及び南北朝期には民間による元との交易がおこなわれていた)により日本にもたらされた元の絹絵を用いて描かれたのが、神護寺三像と考えられる。また南北朝中期に万願寺鳥羽天皇像、妙心寺の花園天皇像はほぼ同じ広幅の作品であり、南北朝期から室町期にかけての同じ広幅の絵絹に描かれた肖像画が多数ある。日本において国宝・重文の武将肖像画の横幅は、桃山期の三十三・五センチの本多正信夫人像、三十四センチからの細川蓮丸像から宇和島伊達文化保存会蔵の豊臣秀吉像の百三・五センチが最大で有る。鎌倉期・室町期において五十センチ前後から四十センチ前後で絹本著色が多い。江戸期になると肖像画は紙の使用に変遷していく。

 天皇・公卿像において万願寺蔵の鳥羽天皇像が縦一七一・五×横一二八・七㎝である。東福寺蔵の藤原道家像が縦一三一・八×横一一七・三㎝(三副一鋪)で、妙心寺蔵の花園法皇像が縦一二七・三×横一一七・八㎝である。鳥羽天皇像は神護寺三像と同じく一枚の色幅で絵絹に描かれ、神護寺三像を上回る肖像である。藤原兼経像一一六・七×一〇〇・九。崇徳上皇像一二〇×八五・五cm、後白河法皇像が一三四・三×八四・七cmで他は三十から六十㎝の横幅である。

 

 祖師像においては兵庫県斑鳩寺蔵の鎌倉期の作とされる聖徳太子勝鬘経講讃図で一九五・五×二ニ五・〇(四副一鋪)ある。次に奈良東大寺蔵四聖御影(建長本、鎌倉期)一九七・二×一五ニ・〇で同じく奈良東大寺蔵四聖御影(永和本、南北朝期)二〇一・五×一五三・〇で他の肖像の横幅はそれぞれである。その中で神護寺三像とほぼ同じ大きさのものが弘法大師像であるが三副一鋪、和歌山・西生院絹 本着色、鎌倉時代。大阪・金剛寺 絹本着色、平安時代。東京・大師会 絹本着色鎌倉時代。東京・総持寺 絹本着色鎌倉時代の肖像である。「伝頼朝像」足利直義像、「伝平重盛像」足利尊氏像、「伝藤原光能象」足利義詮像が安置されているのが神護寺であり、また弘法大師所録の、そして真言宗の根本道場である。

 神護寺は先に述べたように京都神護寺は京都市右京区高尾山にある高野山遺迹(ゆいせき)本山の寺院で山号を高尾山、寺号を神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と号する。創建年は天長元年(824)。開基は和家清麻呂で弘法大師が高野山、東寺を経営する前に一時住していた寺院である。神護寺は和気氏の私寺であったと考えられ「神願寺」「高尾山寺」という寺院が天長元年に合併した寺である。神願寺は和気清麻呂により八世紀末に建立された寺院であるがその所在について河内二上山説、山瀬男山説などが有る。山瀬説には神願寺を石清水八幡の源流として位置づけられる説もある。

 

 神護寺三像「伝頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能象」に対する主名の論拠として「神護寺略記」

と大英博物館の「伝頼朝像」が神護寺三像の「伝頼朝像」を模して作成されてとし、賛に伝源頼朝像が記されていることを挙げている。それでは「神護寺略記」とは何か、十四世紀中葉に編纂された神護寺の寺伝であり、重要文化財にも指定されている。「千洞院には後白河院および平重盛、源頼朝、藤原光能、平業房の肖像が安置してあり、これらは藤原隆信が描いたものである」と記述されており、それが神護寺三像の国宝とされた理由になる寺伝である。後白河院を中央に向かって左に「伝頼朝像」右に「伝平重盛像」その下に「平業房像」が安置されていた。私論、神護寺三像が鎌倉初期の作品であるとすると、左大臣、右大臣の位置に合わせて考えると後白河院を中心に向かって右側が「伝頼朝像」、左に「伝平重盛像」が就くのが普通ではないか。また、後白河院を中心に「伝頼朝像」「伝平重盛像」が安置される理由がわからない。

 神護寺の寺伝、神護寺略記は近年刊行された思文閣出版『高尾山神護寺文書修正』においても二十項ほどで、大半が平安時代の神護寺の記載で若干鎌倉時代を含む神護寺史である。『高尾山神護寺略誌』(神護寺、1933年)は開創から室町・戦国時代までの八項半、江戸時代と近代で二項弱の合計十項ほどに過ぎなく、特に鎌倉期末期の後宇多天皇の時期以降不十分であるという。神護寺三像の由来等の記載は無く、神護寺三像「伝頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能象」が安置され藤原隆信の描いた物であることが記載されているだけである。私自身も、これではあまりにも不十分と考える。

 黒田氏は最も神護寺の寺宝・霊宝についての名称や伝存状況を考察するうえでの資料を探し求めた結果、慶應義塾大学図書館と国立公文書館内閣文庫に写本が残されている『神護寺霊宝目録』(明暦二年(1656)六月に奉行所宛に提出されている)である。江戸時代には、その中で「伝頼朝像」は頼朝像御影、「伝平重盛像」は小松三位御影(平家物語の登場人物)、「伝藤原光能象」は桜町中納言成範像とされている。『神護寺略記』には「内大臣重盛卿」とは記載されず「伝藤原光能象」に至っては桜町中納言成頼京卿御影、桜町中納言成範御影と別人にされている。「伝頼朝像」は頼朝像御影とされ「右大将頼朝卿」とされていない。私論、御影とは神や貴人の霊魂、御魂、死んだ人の姿または絵や肖像である。この事から頼朝の死後『神護寺略記』が作成されている頼朝像御影とされるが明治期には入り「伝源頼朝像」国宝とされた。

 神護寺の歴史は荒廃と復興の歴史であり、創建年は天長元年(824)。開基は和家清麻呂とされ、私論清麻呂と道鏡の宇佐八幡宮神託事件等、神護寺が時代の権力者に翻弄されていた事も多いと考えられる。一、平安期の荒廃と鎌倉初期における復興。二、戦国時代の戦災による荒廃と江戸時代初期における復興。三明治維新の神仏分離令と神道強化政策による昭和前期の復興とその度に荒廃を経験し、復興を成し遂げて来た。鎌倉初期には源頼朝も寄進等を行い、また、南北朝期において足利尊氏・直義等の寄進により復興を成している。戦国期が終わると豊臣秀吉、徳川家康により寄進され復興を成している。その際、豊臣秀吉は寺領五十八石とされ、そして徳川家康により二百六十石の寄進がされている。そして昭和になり大檀越山口玄洞により復興を成し得ている。

 この江戸期において、先述した慶應義塾大学図書館と国立公文書館内閣文庫に写本が『神護寺霊宝目録』明暦二年(1656)六月に奉行所宛に提出されている。そして神護寺三像の名称が変わっている事で何かが起こったことを考えさせる。 ―続く